初詣にゆくと、たくさんの人だかりがある。
こういう日本の行事をみると、神社関連のものが非常に多い。
初詣もそうだし、厄年もそうだろう。
このように、われわれ日本人の日常生活には神社とむすびつきのあるものが多い。
しかし、戦後日本では、神社は宗教であるとして、一方的に廃棄することが知的とみなされてきた。
政教分離がそのひとつである。
しかし、そもそもなんらかの宗教的な価値観なくして、その国の儀式など人間の感情を処理することができるかという根本的な問題には触れようとはしてこなかった。
実際、政教分離というアメリカですら、キリスト教の影響は強い。
国立墓地であれ、大統領の宣誓であれ、キリスト教の結びつきを無視することはできない。
ましてや、ブッシュ大統領を見てもわかるように、かなりのキリスト教原理主義である人物が大統領になることこそ自然な雰囲気があるという国がアメリカであり、政教分離である。
ヨーロッパを見れば、露骨に政党名にキリスト教がついてる場合もある。
それだけでなく、教皇に大きな影響力がある、それがヨーロッパである。
そのくらい宗教とわれわれの生活は密接なつながりがあるということを忘れてはいけない。
もし、宗教を忘れ、人間は物としてしか価値がないとすれば、それは荒廃である。
人間の未知なる精神があるからこそ、その救いとして宗教を求めるし、かつ、宗教は生活の規律を定めるのである。
その現実を忘れてはいけないように思う。
決して、理論では価値を決めることはできないのだ。
科学が、歴史に価値を与えたことはないという現実をよく考える必要があるだろう。
与えたことがあると考える人たちは、根本的な人間の及ばざる知恵をすべてが可能であると考えている傲慢さの中にあるだかだろう。
しかし、宗教を、新興宗教のような極端な宗教を思い浮かべることは、まったく、劇薬だけを薬と思うことと同じである。
歴史と伝統に根付いた宗教こそ、われわれの社会を平穏にするために必要なものではなかと思う。