皆様こんばんは。


今日は中原がお送りします!





本日は日本史の勉強方法について。



この記事を読む方の中には社会科目で日本史を専攻している方も少なくないのではないでしょうか。


私もかつて日本史を専攻しており、日本史を使って受験しました。



ここ数年、日本史に関する本や高校生向けの教科書が幅広い世代で売れるなど、空前の歴史ブームが続いているそうです。

改めて日本史を学び直したい、と考える人が増えていることが要因の一つみたいですね。


今では様々なメディアが歴史的な内容を取り上げていますし、ドラマなどでも日本史に関するものがたくさんありますもんね~


そういえば私が以前はまっていた日曜劇場の『仁』も幕末の物語でしたね(笑)



ところで皆さんは日本史が好きですか?



多分ドラマや映画とかで観る日本史は多くの人が好きなはずなんです。

でも合格するために勉強する日本史はつまらないですよね。


織田信長、豊臣秀吉、徳川家康辺りだけならいいんですけど

お前誰やねん!!!

みたいな人も覚えないといけませんし、大仏の名前やお寺の名前と覚えることは本当にたくさんあります。


そもそもその範囲の広さ


縄文時代に始まり、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成......と



そりゃ~覚えても覚えても忘れますよね。
平安なんて400年ありますからね。無理もありません。


例えば、

皆さんの平安時代って多分初期も後期も同じイメージじゃありませんか?



私は藤原氏を代表する貴族がけまりを蹴って「まろは」とか言っているイメージでした。



しかし同じ時代でも400年あると特徴も全く違うわけでございます。


平安の400年がずっと同じ時代と錯覚するのは現在の400年前である1600年代と今の2000年代を同じ時代と錯覚しているのと同じぐらいおかしなことなんです。


1600年代なんて完全に鎖国してますし、武士もいます。

ひたすら単語を暗記する勉強ではそんなことすら気付けないのです。




皆さんの中には闇雲に暗記して、ひたすら一問一答を解くだけの勉強をしている方はいませんか?


それじゃいつまで経っても日本史はできるようになりませんし、その勉強方法ではセンター試験すらごまかすことはできません。


ではどう勉強したらいいのかということですが、




過去に生きた偉人たちは何も考えず無意味に政策や制度を作ったりしません。

何となく戦争することはないんです。



どういうことかと言うと、その起こった事実には必ず因果関係が存在するということです。


もちろん日本史を勉強する上で膨大な情報量の暗記は避けては通れません。

が、効率良く頭に入れることは可能です。


必死に覚えるべき箇所は歴史的事実というよりはまさにその事象の間に存在する因果関係です。

その因果関係を追う中でいつの間にかその時代を体系的に記憶することができます。


文化史やテーマ史などひたすら暗記するしかないような単元ももちろんありますが、
通史と呼ばれる単元に関しては必ず因果関係が存在します。



折角なので1つ例をあげてみましょう。


古墳時代における古墳への副葬品は前中後期で変わりますが、この記事を見ている皆さんはしっかりその区別ができていますか?


全て当時の政治と密接に関連しています。



前期を思い出してみてください。
3世紀後半~4世紀後半ぐらいですよね。この時期中国は魏呉蜀の三国時代です。当時魏と密接な関係を持っていた日本人をご存知でしょうか。


そうですね。魏国から親魏倭王の称号をもらった卑弥呼です。


卑弥呼の政治の特徴は「鬼道をこととし...」 といった表現からわかるように呪術(簡単にいうと占いみたいなもの)で世を収めようとしました。


当然そんな時代の古墳に収められる副葬品は呪術的性格を帯びているに決まっているのです。

三角縁神獣鏡はその代表例ですよね。


では中期を考えてみましょう。
4世紀末~5世紀ぐらいですよね。この時期の主な出来事は思い出せますでしょうか。

391年、辛卯の年を思い出せたらグッジョブです。


好太王碑文には391年に倭軍(日本軍)と高句麗軍とが交戦して倭軍が敗戦したことが記されています。

しかしこの時タダで敗走しないのがさすがは日本人。

ちゃっかり馬術を持ち帰ってくるんですね~。


この戦いと結びつけたら中期の副葬品の鉄製の武器・武具は非常に覚えやすいのではないでしょうか。

中期に馬具が副葬品となるのも必然と頭に入りますよね。



では後期は?
6世紀~7世紀ぐらいです。
この時期何か思い当たりますか?

この時期は聖徳太子や推古天皇、大友氏や蘇我氏や物部氏など非常に重要な人物が沢山現れてくる時代です。

その中で後期古墳を理解するために大変重要なことは、この時期に百済の聖明王から欽明天皇のもとに仏教がもたらされた。ということです。


この仏教輸入で古来の日本の神の信仰をしている物部氏と新しく仏教を取り入れたい蘇我氏が激しく対立します(崇仏論争)。



結果、蘇我氏が勝つわけですが、
以来推古天皇が仏教を盛んにする詔を出して仏教が盛んになるんです。

まー簡単に言ってしまえば、おえらい人たちの関心が古墳からデカい寺を建てることに変わったんですね~。



今まではいかにデカいお墓を作るかが自分の権力誇示のために大変重要だったんですけど、それがお寺の大きさに移り変わっていったわけです。

だからこの時代に法隆寺や飛鳥寺、広隆寺など沢山お寺ができますよね。


歴史の典型的な特徴なのですが、おえらい人が飽きたものがどんどん庶民に波及するわけです。



だから後期の副葬品は家族的性格を帯びるわけですね。

須恵器はその代表例でしょうか。




さらにここで関連付けておきたいのが石室の話です。


前期中期の石室は竪穴式石室です。
これは棺を粘土槨とい粘土で覆ってしまって、その後大きな石で石室の上の部分をふさいでしまうんです。そしてその上に埴輪などを飾ります。


このため一度ふさげば二度と開けられず、基本的に一人(えらい人)のためにつくられていました。

つまりこれは追葬が前提じゃないお墓なんです。


だってえらい人のお墓なんだから、追葬なんて必要ないわけです。
しかもえらい人のお墓だからでかくないといけない。

だから前方後円墳が流行るんですね。


しかし後期になると古墳は家族的生活を帯びるようになります。

だからお墓は小さくていいわけです。これが円墳ですね(その集合体が群集墳ですよ!)。


しかも家族のお墓なんだから当然追葬できないといけないわけです。
家族の構成員が死ぬたびに新しいお墓を作るんじゃなくて、皆同じお墓に入るようになったんですね。

だから後期には横穴式石室が用いられるようになります。


この石室には羨道(棺までの道)と玄室(棺を置く場所)があり、棺を玄室に納めた後は羨道の入り口を石や土で塞ぎます。


そのため棺を埋めたあとでも羨道の入り口ふさいだ石や土を取りのぞけば、何度でも出入りすることができるわけですね。



その理由は?
もうわかりますよね。


この時にはすでに古墳は家族的性格を帯びており、親子だけでなく孫も同じお墓に入ることがあるからです。



はい、こんな感じに因果関係をおさえていけば、この膨大な範囲の日本史も実は効率的に覚えることができます。


私の場合はその中でいつの間にか日本史に夢中になっており、本当に貪るように勉強しました。





その甲斐もあったのか高3の4月に偏差値39スタートだった私の成績は4ヶ月後の8月には66、5まで伸びましたし、

日本史に関していえばセンター模試で9割をマーク。これは偏差値でいうと72、1です。



正直嬉しくて発狂しました。




死ぬほど勉強すれば必ず結果は出ます。
諦めずに頑張ってみてください。





今回はあえて受験生が苦手な単元をあげてみました。



この記事が少しでも日本史嫌いの人に日本史を好きになってもらうきっかけになれば良いなと思います。










ではまた来週お会いしましょう。



おやすみなさい。




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