ごきげんよう。
冬至を過ぎて、
日々変わるエネルギーに
身体が追いつかなかったのか
数日、発熱してました。
知恵熱、でしょうか(笑)
熱の方は、寝てれば治るって感じだったので
葛根湯を飲んで寝るだけ、という対処のみ。
全快しました。
*
こんなヒキコモリ生活のわたしでも
人間関係が多少なりともあるわけで。
また今回、もうほんとに
「盗聴器が仕掛けられてる?」
ってくらいのタイミングで
ここ数年、関わっている人がまた浮上してきて
なんかこう、モヤモヤしていたわけですよ。
その人の、なにがイヤなんだろう?
自分に問いかけても
ぜんぜん言語化出来ないの(笑)
ただ「だってもうヤなんだもん!」の繰り返し。
平たく観察すると
・自身の(負の)状況を他人のせいにばかりにしている
・とにかく、最終的にはネガティブ方向に持って行く
・自分が大変なのを認めて欲しいアピールがすごい
・甘えるな、わたしはオマエの母でない
・要するにエネルギーバンパイアだと感じる
外に見えるものは自分の内にあるものだから
なるほど、これらがわたしの内側にもあったから
あの人を出現させていたのか。
これがいま、顕在化してるってことは
手放しチャンス、ってことね。
って、ひたすら意識のクリアリングワークをしていた。
*
わたし「やさしさ」ってのも、よくわからなくなっていて
「やさしい」=「許容」=「すべてを飲み込む」
っていう定義があったから
だからわたしはやさしくない、
すべてを飲み込めず、許容できない自分は人間失格。
って自己否定を繰り返し
そのくせ、がまんを強いていた。
でも、その人とのやり取りを
ずっと思い起こしているうちに
相手の「依存心」を
突っぱねきれてなかった自分に気が付いた。
要するに「共依存」だったってこと。
相手からの依存心を支えるのは
同じ力の相手への依存心が自分にないと
釣り合いが取れない。
相手から依存されるのが
うれしい自分がいた、と。
この人を許容しているわたし、やさしいかも。
→単に自己肯定感が欲しかっただけ
みたいな勘違い。
本当のやさしさって
「依存を許容すること」じゃなくて
「自立を促すこと」なんじゃないのか?
って気が付いたら、今まで
「冷たくあしらってこれ以上傷つけたらどうしよう」とか
「自身の負のループに気が付いて、そこから抜け出せるように」とかしてたんだけど
それが、相手を助けているようで、ただ
自分が傷つきたくないための行為だったって気が付いた。
相手をコントロールしたいっていう欲求。
助ける相手は外側にはいない。
そしたら、今まで感じてた
「せっかく○○してるんだから、ちゃんと反応してあげよう」
ってのが、わたしの保身(やさしい人だと思われたい)で
その人の自立を潰してたんじゃないか?と。
わたしがその人にどう思われたとしても
その想いは、その人の中にあるものだから
わたしがコントロールするものではない。
わたしが出来るのは、その人が
恐れの世界から愛の世界に、自ら気が付くのを待つだけ。
その人にそれが出来るっていうのを、信じるだけなんだ。
ってことで、完全に手放し。
・・・って聞こえはいいけど、
相手にするのをやめました、っていうか、
やっとやめられました。
*
なんかね、スピ系で言われてることの
矛盾ってたくさんあるんだけど
ワンネスです、わたしはあなたであなたはわたしなんです。
分離の意識をやめましょう~
ってのと、
周波数が違う人には関わらなくていい
手放せ、人間関係を断捨離しろ
っていうのが、相反してる気がして。
どっちなんですかね!ハッキリしてくれませんかね!!
って思ってた(だからこれが分離思考w)
でもなんか、もっとゆるく
ここちよかったら相手にする、
そうじゃなかったら、あえて関わらない。
みたいな感じでいいのかなぁ、と。
その人が、なにを選択しようとも
わたしの世界ではなく、
相手の世界で選択した出来事。
そこにわたしが責任を感じる必要は一切ない。
これが、自分を否定せず、がまんせず
自分が自分にやさしくしてあげること。
自分が自分にやさしくするってことは
自分=世界なんだから
その人を含む世界にやさしくしていることなんだよね。
*
「だってもうヤなんだもん!」は
相手から来る、真っ黒いタールみたいな依存心が
べったりくっつく感じが耐え切れなかったから。
わたしに「共依存」の感覚がなくなってしまったので
支えきれなくなっただけ。
勇気をもって「千尋の谷底」に放置してもいい。
そこから這いあがるかどうかは、本人次第。
自分の意識に集中して、
その人も「よくなる」パラレルに移行ればいい。
だって世界はわたしの投影だもの。
*
今年も一年、お付き合いいただきませて
ありがとうございました。
また来年もよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎えくださいませ。