ごきげんよう。

 

 

今日はマニア的な言葉の解釈の話。

 

でも、言葉の解釈なんて人それぞれなんで、

「そういう捉え方もあるよねー」くらいに軽く読んでください。

 

 

いろんな「気付き」系の本を読んだりしていると出てくる言葉に

 

・ありのまま

・あるがまま

 

っていうのがある。

 

これ、すごく近い言葉なんだけど

わたしのなかでは一緒に出来ないモヤっと感があって。

 

最近ずっと、この「違い」について考察をしていたんだけど

今日瞑想してる時に、自分なりの解釈が降って来た。

 

 

まず「ありのまま」っていうのは「状態」で

「あるがまま」っていうのは「存在」なんだよね。

 

「Let it go(ありのまま)」と

「Let it be(あるがまま)」の違い。

 

それを突き詰めていくと、

「ありのまま」には自分の意志(動詞)があるのが明確で

「あるがまま」は自分の意志の有無は関係がない「存在(be動詞)」ということ。

 

「ありのまま」には自我(エゴ)がある。

「あるがまま」は自我(エゴ)がないゼロポイントにいる。

 

エゴがあるってことは、

 

「ありのまま」は分離。

「あるがまま」は統合。

 

観察する視点の違いでもある。

 

「ありのまま」→「個」の視点のまま「個」をみている

「あるがまま」→「個」を内包した「全」の立場でみている

 

 

だから、仏門は「ありのまま」といわず「あるがまま」なんだって腑に落ちた。

 

 

例えば「ありのままの僧侶」と「あるがままの僧侶」がいたら、

話を聞きたいのは、圧倒的に「あるがままの僧侶」。

 

あるがままってことは、ジャッジを越えたところからの視点だから、そういう人の話を聴けば、気付きがあるよね。

 

 

でも、僧侶も「ありのまま」でエゴまみれだったら、エゴ対エゴの不毛な戦いになる。

 

まぁ、僧侶は大半が「あるがままを目指して修行してる人たち」だってことを念頭に置いておくのがいいかも(笑)

 

 

いちばんめんどいのは、自分があるがままの状態になっているという勘違いをしている「あるがままもどき」。

 

僧侶だっていうだけで「きっとあるがままなんだろう」って期待しちゃうのは期待する側のエゴだし、そういう周波数にお互い引っかかるから、ジャッジがもどきを引き寄せる。

 

 

打開策を考えるなら、自分自身が「固定概念でジャッジしない」っていう状態で「あるがまま」観るようにすればいいんじゃないかな。

 

そうすると「本質」が視えてくるんじゃないかなって思う。

 

もし「もどき」が目のまえに現れたら、自分に「ジャッジのタネ」があることに気が付けばいい。

 

その存在すら「すべて完璧」だから。

 

 

 

***

 

 

 

人生のシナリオを、占星術からひも解きます。

ご自身の楽園(理想の未来)が現実化するプロセスをお楽しみください。

 

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