ごきげんよう。
今日はマニア的な言葉の解釈の話。
でも、言葉の解釈なんて人それぞれなんで、
「そういう捉え方もあるよねー」くらいに軽く読んでください。
*
いろんな「気付き」系の本を読んだりしていると出てくる言葉に
・ありのまま
・あるがまま
っていうのがある。
これ、すごく近い言葉なんだけど
わたしのなかでは一緒に出来ないモヤっと感があって。
最近ずっと、この「違い」について考察をしていたんだけど
今日瞑想してる時に、自分なりの解釈が降って来た。
*
まず「ありのまま」っていうのは「状態」で
「あるがまま」っていうのは「存在」なんだよね。
「Let it go(ありのまま)」と
「Let it be(あるがまま)」の違い。
それを突き詰めていくと、
「ありのまま」には自分の意志(動詞)があるのが明確で
「あるがまま」は自分の意志の有無は関係がない「存在(be動詞)」ということ。
「ありのまま」には自我(エゴ)がある。
「あるがまま」は自我(エゴ)がないゼロポイントにいる。
エゴがあるってことは、
「ありのまま」は分離。
「あるがまま」は統合。
観察する視点の違いでもある。
「ありのまま」→「個」の視点のまま「個」をみている
「あるがまま」→「個」を内包した「全」の立場でみている
だから、仏門は「ありのまま」といわず「あるがまま」なんだって腑に落ちた。
*
例えば「ありのままの僧侶」と「あるがままの僧侶」がいたら、
話を聞きたいのは、圧倒的に「あるがままの僧侶」。
あるがままってことは、ジャッジを越えたところからの視点だから、そういう人の話を聴けば、気付きがあるよね。
でも、僧侶も「ありのまま」でエゴまみれだったら、エゴ対エゴの不毛な戦いになる。
まぁ、僧侶は大半が「あるがままを目指して修行してる人たち」だってことを念頭に置いておくのがいいかも(笑)
いちばんめんどいのは、自分があるがままの状態になっているという勘違いをしている「あるがままもどき」。
僧侶だっていうだけで「きっとあるがままなんだろう」って期待しちゃうのは期待する側のエゴだし、そういう周波数にお互い引っかかるから、ジャッジがもどきを引き寄せる。
*
打開策を考えるなら、自分自身が「固定概念でジャッジしない」っていう状態で「あるがまま」観るようにすればいいんじゃないかな。
そうすると「本質」が視えてくるんじゃないかなって思う。
もし「もどき」が目のまえに現れたら、自分に「ジャッジのタネ」があることに気が付けばいい。
その存在すら「すべて完璧」だから。
***
人生のシナリオを、占星術からひも解きます。
ご自身の楽園(理想の未来)が現実化するプロセスをお楽しみください。
予約サイトが新しくなりました![]()
Botanical-Lab(ボタニカルラブ)
