私はこれまで、
「あなたは批判的なことばかり言う。」
ということを言われてきた。

私自身そのようなことを言っていることは認める。
しかし、皆は『批判』を悪口でも言っているように悪いことだと言う。

それは断固として認めることができない。

なぜなら、私は自分でしっかり考えて、自分なりの結論を出して、「会話」という議論の場に自分の意見を出しているだけだ。
それが結果的に大半の意見と異なっても、反対意見を言うことは「悪」ではない。

確かに、何でもかんでも否定することは良くない。
特に、「大して内容も考えずにとりあえず否定する」これは「悪」だと思う。
しかし、上記の行動を挿す言葉が『批判』ではないはずだ。


試しに広辞苑で『批判』の意味を調べた結果が以下である。
①批評し判定すること。
②人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的な内容のものを言う場合が多い。哲学では、特に認識能力の吟味を意味することがある。

これからも分かるように、『批判』とは批評・判定・評価することである。
決してこの言葉自体、「否定」することではない。「悪」ではないのだ。



逆に先ほどから言う「悪」に近い言葉は、以下の意味を持つ『非難』だ。
①欠点・過失を責めとがめること。一方的に攻撃し、痛めつける。
だとしたらこれは非常に「悪」に近い。

しかし、これも正真正銘の「悪」ではない。

そもそも『批判』、『非難』どちらの言葉も大なり小なり「悪」となる可能性を含んでいる。
しかし、もしそれらを「悪」にしているとしたら、それは私達人間だと思う。


知識と意見を持ち、その意見を他人とぶつけ合い、議論する。
これさえすれば、会話の中に出てくる『批判』、『非難』とされる言葉も「悪」、悪いことではないはずだ。

むしろ、物事を正しく理解するためには、議論には賛成・反対の両方の意見を出し合い判断することが必要である。

だから、人の意見の反対であっても、その意見を議論の場にぶつけることはむしろ大切である。

しかし、我々日本人はあまりにも付和雷同的過ぎる。

付和雷同とは自分の主義主張を持たず、人の言動につられて行動すること。
深く考えず、他人の意見に簡単に同調することである。

これでは、『批判』も『非難』も「悪」になってしまう。
なぜなら、自分の意見でもなく『批判』・『非難』を行い、ただ「否定」し、責め立て、それが正しいのか議論すらしないのだから・・・


典型的な例が震災による原発事故や民主党政権に向けられる批判だ。

確かにこれらには責められても仕方がない責任や問題がある。
しかし、どちらも一方的に責めて良いわけではない。
これらの件には私達にも責任があり、ただ責めても何の解決にもならないのだから。

原発は、私達の生活のための発電の多くを担い、それらの恩恵で私達は快適に生活できている。
恩恵を受けている限り、それに加担したのと同じである。

民主党政権も、私達国民全員で選んだ結果で、その任命責任も私達にある。

だから私達も一方的に責められない、責任は私達にもあることも認識しなければならない。
そして、このように悪い所を責め合うだけでも仕方がない。

何も話が前に進まず、問題が解決しなのだから。


ではどうすべきなのか?

まず問題について知り、問題点の指摘し合い、議論し合い、そして解決策を導く、それが必要である。

ただ『批判』・『非難』していても、嘆いていても、それだけでは駄目だ。
それを議論し、結論を出し、問題を解決しなければ。これは人にやってもらうことではない。
みんな1人1人がやらなければならないこと、誰かがやれば改善できることではない。

今こそ団結し、国民1人1人の力を合わせ、
この国家的惨事を乗り越えよう!!

それしか「解決の道」はない。
それ以外にあるのは「衰退の道」ただ1つだ。

私も「批判」と「非難」という言葉の意味を考え、
今更ながらこれらの問題の自分の責任に気付くことが出来た。

それを逃げずに受け止め、これからの教訓として頑張るつもりだ。
この私の意見を読み、少しでも同感してもらえたら共に頑張ろう。


私達の「未来」を明るいものとするために。