わりと近いのに行ってなかった、国立ハンセン病資料館。
資料館のある多磨全生園ではおよそ100年の間絵画活動が行われていて、その企画展が開催中と知り、思わず出かけた。

 

 


多磨全生園は1909年の設立。現在全国にあるハンセン病療養所のうち東部5園の医療センターとして機能していて、患者の住居や資料館だけでなく、人工透析も受けられる医療施設や、付属の看護学校、納骨堂、神社に教会にお堂に公園まである。

 

 

 

 

かつては雑木林が生い茂る、世間から隔絶された場所だった。いまでは周囲は住宅街になり、最寄り駅まで徒歩15分程度と開けているが、それでも敷地に足を踏み入れると、孤立した異世界に入り込んだようだった。

資料館は比較的新しいのか、改修したのか、きれいで明るく、ちょっとホッとさせられた。

 

 


最初はそれぞれが個人的に描いていたのだろうか、戦時中に絵画サークルが生まれ、戦後に活動が本格化、近年では入所者の減少により、また個人個人の活動に変遷しているようだ。

 

1923年に、園内の礼拝堂で入所者が描いた絵画の初めての展示会が開かれた。それから100年になる。

 

 


マグマのような怨念を感じる作品があるかと思えば、ポップなお地蔵さんと丸い文字も軽やかな「現代絵巻」もある。

 

 

 

 

 

50年代からはプロが指導を行うこともあったというが、状況的に美術教育を受けてない人も多そうだ。それどころか道具も満足になかったろうし、迫害といっていい強制隔離の環境で、強制労働の合間に、指のなくなった手に絵筆を巻き付けたり、失明同然の目をキャンパスにこすりつけるように近づけたりして、絵を描いた。

 

添えられた言葉やエピソードを読むと、病気そのものより、病身を襲う社会からの、人からの終わることのない辱めと暴力への怒りと苦しみが絵に込められているように感じられる。

 

 


企画展の後で常設展も鑑賞し、衝撃はいや増した。

 


ハンセン病とその政策の歴史、療養所での過酷な暮らし、生き抜いた患者や回復者の姿。こんなことが起きてたのか。ある程度の知識はあるつもりだったが、生半可な知識はなにも知らないのと同じだ。わかってる気になって、かえってタチが悪いかもしれない。

 

 

療養どころか、ほぼ自給自足のため健康体でも過酷な重労働を強いられ、介護や看護も患者がしていた。それが元で病状も悪化し、亡くなる人も多かったようだ。

強制的な不妊治療や断種の話もよく聞くが、どういう処置なんだろうとネットで調べてみたら、おぞましかった。こんな屈辱を与えていたのかと、唖然とする。
そういう人生を送る人たちが、描いた絵だったのだ。


図書館で見つけた『鈴木時治画集 生きるあかし—ハンセン病療養所にて』のなかに、こんな文章があった。

”絶望で打ちのめされていた時、ある雑誌を見た。ナチスの強制収容所でユダヤ人の女性画家が、ガス室に送られる運命の子どもたちに絵を描くことを教え、生きる喜びと希望を与え続けたというものものだった。「おれも絵を描くことで自分を見出すことができたらー」と思い描き始めて45年にもなってしまった。”


”療養所”を強制収容所となぞらえるのは、展示を見ると大げさに感じない。

彼はハンセン病ですべての手指と両足をなくし、失明寸前で自分の「生きるあかし」のため描き続けた。同じ病を得た妹は、回復して社会復帰したものの、いじめにあったらしく施設に戻り、その後、自ら命を絶った。
 

 

(これは企画展にあった「現代絵巻」)

 

 

強制隔離は1996年に「らい予防法」が廃止されるまで続いたということなので、そのときすでに成人していた自分も、彼らにその人生を強いるひとりであったと言える。知らずに何に加担しているか、わからないものだ。いまも、なにかに加担しているのだろうな。

 

「アールブリュット」に分類されるのだろうか。アート作品としても見ごたえがあるので、絵をきっかけにハンセン病に触れてみるのはいかがでしょうか。その際はぜひ、常設展にも足を運んでみてください。

 

 

■絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年
会期:2024年3月2日~9月1日
会場:国立ハンセン病資料館2階 企画展示室

料金:無料