オシフィエンチム、ドイツ語名アウシュヴィッツは、クラクフからバスで1時間半ほどの距離にある。

 

クラクフ駅に隣接したバスターミナルの入り口

 

10月とは思えないほど暖かくよく晴れた日。まだ緑が濃く残る道を走りながら、こんなのどかな日にも、ユダヤ人が列車にぎゅうぎゅうに詰めこまれて絶滅収容所に向かっていったんだろうなと、80年前に思いが向かう。

朝10時半、日本語ガイドの中谷剛さんと合流。唯一の日本語ガイドとして、1997年から活動している方だそうだ。
中谷さんの後に従って、ついに収容所に足を踏み入れた。
 
 
これまで写真で何度も目にした、「働けば自由になる」というスローガンを掲げた収容所の門が現れた。

アウシュヴィッツははじめ、ナチスドイツに抵抗するポーランド人を政治犯として収容していた。そこにソ連軍捕虜も加わり、死に至るまでの過酷な強制労働を課していた。
 
迫害の対象はあっという間に広がり、障害者、同性愛者、ロマ、そしてユダヤ人に及んでいく。
 
 
ホロコーストの芽は、ごく身近な差別なんです、いま自分自身のまわりにその芽はないのか、それを考える必要があります。
中谷さんはそう語る。
時々立ち止まっては、いま日本で起きている現象を例に挙げて、それをどう受け止めるか、参加者に思考を促す。

この博物館があるのは、次のホロコーストを生まないためなのだという。ヨーロッパでは授業の一環としてアウシュヴィッツ訪問が組まれていることも多いが、過去の歴史を知るためではなく、平和を保つため、つくるための学びとなるように心を砕いているということだった。

 
ガス室に送られた人たちが履いていた靴の一部。ヒールの高い靴がぽつんと立つ。ほかに大量のカバン、大量の刈り取られた髪の毛、めがね、などが展示されている。
 
写真では、身なりをきちんと整え、全財産をつめこんだ大きなカバンを持った人たちが運び込まれる様子がわかる。
 
 
3kmほどの距離にある第2キャンプ、ビルケナウ強制収容所の「死の門」。
ビルケナウは解放前に証拠隠滅のため破壊され、建築物はほとんど残っていない。
 
ここで、約100万人が殺され、そのほとんどがユダヤ人だった。
 
 

3時間ほどかけて2つの収容所をまわり、ガス室や死体焼却炉、数千人の銃殺が行われた「死の壁」などを見学。


ここで起きていることを、当時外の人間がなにも知らなかったわけではない。
たとえば赤十字国際委員会(ICRC、各国の赤十字とは別組織)は、アウシュヴィッツを視察している。その時ナチスは平和的な環境を偽装して視察団を欺いた、とも言うが、偽装とわかりながら手を打てなかった。

わたしは4年前までは国際協力団体に勤めていたので、もし自分がICRCの職員だったら何ができただろう、自分の団体だったらどんな行動をとっただろう、と考えずにいられない。

ホロコーストに限らず、ボスニアでもルワンダでも、同じ話はある。今もどこかで起きているのだと思う。
誰かがあげている声を、自分は気づけるか。気づいたら行動できるのか。

もし中谷さんというガイドがいなかったら、悲しい過去を知るにとどまったかもしれない。よく理解するためにも、中谷さんのガイドを強くお勧めします。