私の一番古い記憶は、
エンジ色の抱っこ紐で
母の体温を感じて抱っこされていた事・・・
母の心臓の鼓動で母の心理状態が
ダイレクトに伝わってくる感覚。
乳飲み子だった私は、
安心感と不安が不定期に乱高下する
そんな母の鼓動を日々感じていたと思う。
・・・遠い遠い記憶、
さらに遠い記憶は
体内記憶かもしれない。
実は母が私を身ごもった時、
既に私の両親の結婚は暗礁に乗り上げていて、
ほぼ別居状態だったという。
当時母は
既に3歳の長男がいて
第2子になる私の妊娠が完全に想定外の出来事で
今後シングルマザーなる確率が高い状況下
母はおなかに宿った私を生まないという決断を
下したそうだ。
産婦人科を訪れ、
母が中絶の手続きをして、
いざ処置室へというタイミングで
産婦人科の斎藤院長先生は
母にこう言ったそうだ。
「元気に生まれようとする命だよ、本当に悔いはないか?」
当時33歳の母は破綻しようとしている自身の結婚と
将来の経済的な不安などで自信を消失していて
新しい命を迎える心の余裕など全くなかったに違いない。
でも、おそらくその頃、
人間の形になる前の魚みたいな形の
胎児だった私は小さな尻尾を思い切り振って
母親に思い切り訴えかけていたに違いない。
「産んでみて!」
「生きたい!生きたい!生きたい!」
それは恐らく私の人生で
最も遠いとおい体内記憶。
わずか数ミリの未完成で未熟な胎児細胞だった私は
受精という何十億倍の倍率をくくりぬけたというのに
すぐに次の超難問に出くわしたのだ。
若い母があの時、
中絶のための処置室で何を考えてたのか、
そして、経済的精神的な理由で
出産しないと決めた心境はどんな苦悩だったのだろう・・・
いずれにしてもあの日、
どういうことか
中絶で堕胎される大ピンチを回避して
翌年の7月13日に東京調布市で産声を上げた。
胎児の頃から体内で
母親の不安や怒りや嘆きを感じてきて、
非言語で母と交信をして誕生までこぎつけた私は
胎児の頃から自己啓発な人生なのだが、
実は生まれてからもさらに
自己啓発な出来事が加速していくことになるのだった。
つづく