しばらく前からブログがはやっています。
情報発信の手段として、ホームページづくりほどの手間や知識を必要とせず、携帯からでも文章や画像を更新できて、友人知人だけでなく、広く一般の人に「何かを伝える」ことができるなんて、10年前に想像できたでしょうか?
もちろん今はミクシーなどのSNSからツイッター、さらにはユーチューブやユーストリームなどの動画まで、さまざまな方法で「何かを伝える」ことができるようになりました。伝えることは、日常生活だったり、趣味だったり、ビジネスだったりいろいろです。自由で、コストが実質ゼロ円で、いつでも好きなときに、好きなだけ「伝える」ことができるのです。
これは人類始まって以来の快挙です!
少し大げさに聞こえるかもしれませんね。でも、どんな時代においても、権力者以外が自由な発言を許されていたことは少なく、市民が発言権を持ち、それが実際に力を持つようになったのは近現代に入ってからでしょう。マスメディアの台頭で、新聞やテレビ、ラジオが今度は発言権を握るようになりました。確かに政治家や権力者よりは市民側に近かったとはいえ、個人の自由な表現をそのまま伝えることはありませんでした(その方が良かった……という声もあるかもしれませんが)。
10~15年ほど前からはじまるインターネット革命。ブロードバンド革命。そして今はフリー革命の時代です。
コーヒー1杯から、有益な情報、はては情報を蓄えたり発信したりといった「サービス」までが「実質ゼロ円」になりました。
誰もが自由に発信できることで、知りたいことを知ることができる。聞いたり調べたり、ときに答える側になったり。そうやってテキストや写真がサーバーに記録され、シェアされるようになると、書いた文章を公開すること、撮った写真を見てもらうこと、動画を撮ってユーチューブなどへアップすることへの「抵抗感」がゆっくりと薄らいでいきました。
こうして誰もが発言者、配信側であり、同時に受信者、受け手側にもなった時代のおもしろさは、無限の可能性を感じさせてくれます。いやむしろ、自由なことが「当たり前」という感覚を、特に若い人たちは持っています。
とはいえ、「何を書くのも自由」になるための最後の砦があります。
それは「抵抗感」です。
明日はその辺りを少しつづってみます。
「作家の本田健です」
……なんかかっこいい響きですよね。他の枕詞と比べてみましょう。
「社長の本田健です」
「公認会計士の本田健です」
「同時通訳の本田健です」
「セミナーリーダーの本田健です」
「不動産オーナーの本田健です」
「資産家の本田健です」
どれも本当なんだけど、すっとイメージができない気がします。それは健がたくさん本を出しているから、ということもありますが、自分をどうブランディングしていくか(IQ的に)、あるいはどういう自分でありたいか(EQ的に)を上手に、時間をかけて、戦略的に、統合していった結果として「作家の本田健」を育てあげたということもあるでしょう。作家という言葉には多面性があって、重みがあり、信頼や信用と同時に、親しみやすさもあるのですから、これほどすばらしい肩書きもありません。
事実、「本」という存在には、たくさんのすばらしいイメージが伴っています。
ひとつには、聖書や仏典の類いこそが最初の「本」であり、そこには真実(と信じられるもの)、敬う心や幸せに生きる秘密、あるいは生存のための知恵が見事に収められた「人類の宝」であったという歴史的な側面があります。
古代エジプトやローマ、あるいはインドや中国の王朝にあって、知は力であり、書として蓄積していること、それを所有し利用できる状態におくことは、権力者にとっては最重要課題のひとつでした。人びとを統治し、水を引き、耕し、星を読み、暦を刻み、天変地異から病を治す方法まですべてが記録され、記録は利用され、実際に人びとに豊かさと幸せをもたらしてきました。それらすべてが国を治めるパワーの源ともなったのです。
近代においても、印刷技術の父グーテンベルグが最初につくったのは聖書でした。倒産しそうになった出版社がつくるのも聖書。いつの時代にも、聖書こそがベスト&ロングセラーの筆頭なのです(西洋世界においては)。
そんな本の歴史的背景を自ずと知っていて、絵本やマンガに人生を教わり、唯一絶対の真実としての教科書を暗記させられてきた僕らにとって、自らがその「本」を生み出す側になるなんて、想像できるでしょうか? 多くの人にとって、それは「あまりに恐れ多いこと」以外の何ものでもないかもしれません。
ではぶっちゃけ、作家ってそんなにエラいんでしょうか?
エラいなーと思える人、本当に尊敬できる作家はもちろん大勢います。本田健はそんな作家の一人です。でも、作家活動以外を見ていると、ごく普通の人です。僕らと同じようにおいしいご飯を喜び、悲しいことに涙し、眠くなったら眠る日々を送っています。ただ少し違うのは、モノを書くことに関して志があるということ。絵や歌が得意な人、スポーツや専門知識なら超一流という人と同じように、目指すところがあり、そこに向けて多くを注ぎ込んできたことは、本当にすばらしいと思います。
ただ本づくりの現場にいると、舞台裏から見える実際の「作家像」は、一般的なイメージとは少し違います。
これまでの編集経験のなかで、小学生の作文並みの文章を直したこともあります。ただの箇条書きを、新聞の書評に載る本に仕立て直したことも一度や二度ではありません。校正者と一緒に磨きに磨いた文章が、推薦図書や高校入試に引用されたこともありました(科目は理科でしたが)。本づくりの裏側の作業って、そんなもんです。
ときどき「なんでそんなこともまでやるの?」と聞かれるのですが、答えは簡単。話がめちゃくちゃおもしろいから、どうしたって本にしたい!という熱意でそこまでやってしまうのです。冷静に考えれば著者を甘やかし過ぎとか、手間をかけ過ぎて効率が悪いとか、そんなこともあるかもしれません。でも、本を創っている最中に、そんな余計なことは考えている暇もありません。
テープ起こしでも、代筆でも、ゴーストライターを使ってでも、手段なんてどうでもいいんです。ただ、あの人にこのテーマを「本」という媒体を使って伝えてほしい!という一心で、ついつい熱が入ってしまうのです。
だから、個人ブランディングに本を出しましょう!と盛んに言われている時代において、そんなのは幻想に過ぎないことを作家たち自身もよくよく分かっていながら、その幻想を上手に利用しているだけで、でもその価値が(昔と比べて)どんどん低下していることも一方で感じていたりもします。いやむしろ、幻想が崩れ、等身大のひとりの人間の表現としての「本づくり」、純粋にクリエイティブな表現のひとつとしての作家活動と捉えられつつあるのが、この21世紀の状況なのです。
……なんかかっこいい響きですよね。他の枕詞と比べてみましょう。
「社長の本田健です」
「公認会計士の本田健です」
「同時通訳の本田健です」
「セミナーリーダーの本田健です」
「不動産オーナーの本田健です」
「資産家の本田健です」
どれも本当なんだけど、すっとイメージができない気がします。それは健がたくさん本を出しているから、ということもありますが、自分をどうブランディングしていくか(IQ的に)、あるいはどういう自分でありたいか(EQ的に)を上手に、時間をかけて、戦略的に、統合していった結果として「作家の本田健」を育てあげたということもあるでしょう。作家という言葉には多面性があって、重みがあり、信頼や信用と同時に、親しみやすさもあるのですから、これほどすばらしい肩書きもありません。
事実、「本」という存在には、たくさんのすばらしいイメージが伴っています。
ひとつには、聖書や仏典の類いこそが最初の「本」であり、そこには真実(と信じられるもの)、敬う心や幸せに生きる秘密、あるいは生存のための知恵が見事に収められた「人類の宝」であったという歴史的な側面があります。
古代エジプトやローマ、あるいはインドや中国の王朝にあって、知は力であり、書として蓄積していること、それを所有し利用できる状態におくことは、権力者にとっては最重要課題のひとつでした。人びとを統治し、水を引き、耕し、星を読み、暦を刻み、天変地異から病を治す方法まですべてが記録され、記録は利用され、実際に人びとに豊かさと幸せをもたらしてきました。それらすべてが国を治めるパワーの源ともなったのです。
近代においても、印刷技術の父グーテンベルグが最初につくったのは聖書でした。倒産しそうになった出版社がつくるのも聖書。いつの時代にも、聖書こそがベスト&ロングセラーの筆頭なのです(西洋世界においては)。
そんな本の歴史的背景を自ずと知っていて、絵本やマンガに人生を教わり、唯一絶対の真実としての教科書を暗記させられてきた僕らにとって、自らがその「本」を生み出す側になるなんて、想像できるでしょうか? 多くの人にとって、それは「あまりに恐れ多いこと」以外の何ものでもないかもしれません。
ではぶっちゃけ、作家ってそんなにエラいんでしょうか?
エラいなーと思える人、本当に尊敬できる作家はもちろん大勢います。本田健はそんな作家の一人です。でも、作家活動以外を見ていると、ごく普通の人です。僕らと同じようにおいしいご飯を喜び、悲しいことに涙し、眠くなったら眠る日々を送っています。ただ少し違うのは、モノを書くことに関して志があるということ。絵や歌が得意な人、スポーツや専門知識なら超一流という人と同じように、目指すところがあり、そこに向けて多くを注ぎ込んできたことは、本当にすばらしいと思います。
ただ本づくりの現場にいると、舞台裏から見える実際の「作家像」は、一般的なイメージとは少し違います。
これまでの編集経験のなかで、小学生の作文並みの文章を直したこともあります。ただの箇条書きを、新聞の書評に載る本に仕立て直したことも一度や二度ではありません。校正者と一緒に磨きに磨いた文章が、推薦図書や高校入試に引用されたこともありました(科目は理科でしたが)。本づくりの裏側の作業って、そんなもんです。
ときどき「なんでそんなこともまでやるの?」と聞かれるのですが、答えは簡単。話がめちゃくちゃおもしろいから、どうしたって本にしたい!という熱意でそこまでやってしまうのです。冷静に考えれば著者を甘やかし過ぎとか、手間をかけ過ぎて効率が悪いとか、そんなこともあるかもしれません。でも、本を創っている最中に、そんな余計なことは考えている暇もありません。
テープ起こしでも、代筆でも、ゴーストライターを使ってでも、手段なんてどうでもいいんです。ただ、あの人にこのテーマを「本」という媒体を使って伝えてほしい!という一心で、ついつい熱が入ってしまうのです。
だから、個人ブランディングに本を出しましょう!と盛んに言われている時代において、そんなのは幻想に過ぎないことを作家たち自身もよくよく分かっていながら、その幻想を上手に利用しているだけで、でもその価値が(昔と比べて)どんどん低下していることも一方で感じていたりもします。いやむしろ、幻想が崩れ、等身大のひとりの人間の表現としての「本づくり」、純粋にクリエイティブな表現のひとつとしての作家活動と捉えられつつあるのが、この21世紀の状況なのです。
八ヶ岳山麓から帰ってきました。
小旅行だったけど、奥さんが大喜びしたことと、自分の声に耳を澄ませたことが良かったかな。
少し体がもやっとしていたので、夕食前に、ひさしぶりに軽くジョギングしました。体と心が一体になる感じが、とてもいいです。頭もすっきりします。
本当は今日が奥さんのバースデイなのですが、今夜は料理をしてもらい(最近は酵素食に凝っているみたい)、夜は落ち着いて過ごしました。家もいいものです♪
シータヒーリングの個人セッションを受けて以来、うちの奥さんが本来の自分を取り戻しつつあるみたいです。今度参加する健のパートナーシップセミナーで、さらに深いところでお互いつながることができればいいなと思っています。
夜になって、リープロのプログラムを読み返してみました。仕事やお金、健康や人間関係など20の分野でチェックしていくワークがあったのですが、まだ2週間しか経っていないのに、なぜか自分と奥さんの満足度が高まっているようです。この間何があったということもないのですが、自己肯定感が高まったのかな? もっとも、チェックする時々で感じ方が変わるので、あまり一喜一憂しすぎないように落ち着いて受けとめようと思います。
あらためて、自分のビジョン、みんなに共感してもらえるビジョンについても考えてみました。
リープロの仲間を見ていても、小冊子や本を出したいという人が何人もいます。僕は一編集者として、仲間として、お手伝いできることがいろいろありそうです。同時に、会社を卒業しようとしている身には、サポートしてもらいたいことが山のようにあるのです! だからまず、自分のビジョンを確かなものにすることが先決。ビジョンが明確であればあるほど、与えるもの(=シェアできること)はもちろん、受け取るものも明確になるのですから。
明日はその辺りを少しまとめてみようと思います。
小旅行だったけど、奥さんが大喜びしたことと、自分の声に耳を澄ませたことが良かったかな。
少し体がもやっとしていたので、夕食前に、ひさしぶりに軽くジョギングしました。体と心が一体になる感じが、とてもいいです。頭もすっきりします。
本当は今日が奥さんのバースデイなのですが、今夜は料理をしてもらい(最近は酵素食に凝っているみたい)、夜は落ち着いて過ごしました。家もいいものです♪
シータヒーリングの個人セッションを受けて以来、うちの奥さんが本来の自分を取り戻しつつあるみたいです。今度参加する健のパートナーシップセミナーで、さらに深いところでお互いつながることができればいいなと思っています。
夜になって、リープロのプログラムを読み返してみました。仕事やお金、健康や人間関係など20の分野でチェックしていくワークがあったのですが、まだ2週間しか経っていないのに、なぜか自分と奥さんの満足度が高まっているようです。この間何があったということもないのですが、自己肯定感が高まったのかな? もっとも、チェックする時々で感じ方が変わるので、あまり一喜一憂しすぎないように落ち着いて受けとめようと思います。
あらためて、自分のビジョン、みんなに共感してもらえるビジョンについても考えてみました。
リープロの仲間を見ていても、小冊子や本を出したいという人が何人もいます。僕は一編集者として、仲間として、お手伝いできることがいろいろありそうです。同時に、会社を卒業しようとしている身には、サポートしてもらいたいことが山のようにあるのです! だからまず、自分のビジョンを確かなものにすることが先決。ビジョンが明確であればあるほど、与えるもの(=シェアできること)はもちろん、受け取るものも明確になるのですから。
明日はその辺りを少しまとめてみようと思います。
昨日からホテルに泊まってのんびりしてます。
平日のホテルは閑散としてるか、パックツアーで団体さんを入れるかのどちらかですね。
僕らはあえてパックツアーを選びました。JRの指定席付きで完全自由行動というのがあったので、奥さんの誕生日祝いを兼ねての小旅行です。まわりを見まわすと、リタイア組か、子育てを終えた主婦組しかいません。できれば、海外からもお客さんを呼ばないと、ホテルの経営的には厳しいでしょうね…。
朝から雨が降っているので、部屋でおとなしく鳥の声や木の匂いをかいでいます。これから雨が弱くなったら散歩でも行こうかな。

朝食も満足。
iPhoneでお気に入りの音楽を流しながら、書き物をしたり、昔書いたショートストーリーを読み直したり。
「罪悪感」について考えています。
平日、皆が働いている日に休むこと。仕事を頼んで遊んでいること。付き合いに縛られること。取り合えず働くことで、本当の自分と向き合うことを先延ばしにすること…。
こういう感情をクリアしていくのが今のテーマかな。そんな事をふと思いました。
そしてもうひとつ。
健やアラン、たくさんのメンターから学んでいる「無限の豊かさ」を、まだ本当に深いところでは信じ切れていないのだということ。
僕は何を怖れているのか、それはどこからきたものか。
多くは両親やきょうだい、おじやおば、祖父母から受け継ぎ、ある意味では「幼い自分」を護ってきてくれたことも事実です。社会のなかにもたくさんの怖れが渦巻いていて、さまざまなメディアが増幅してくれます。
なかには事実もあります。でも事実ばかりでもない。むしろ怖れは誇張され、喧伝され、利用されています。
そこから自由にならない限り、本当の幸福と豊かさは巡っては来ないのでしょうか?
というよりはむしろ、無数の豊かさと愛が降り注いできている事に気づかず、受け取ることも、ましてそれを味わうこともできずにいることの方が多いのかもしれません。
平日のホテルは閑散としてるか、パックツアーで団体さんを入れるかのどちらかですね。
僕らはあえてパックツアーを選びました。JRの指定席付きで完全自由行動というのがあったので、奥さんの誕生日祝いを兼ねての小旅行です。まわりを見まわすと、リタイア組か、子育てを終えた主婦組しかいません。できれば、海外からもお客さんを呼ばないと、ホテルの経営的には厳しいでしょうね…。
朝から雨が降っているので、部屋でおとなしく鳥の声や木の匂いをかいでいます。これから雨が弱くなったら散歩でも行こうかな。

朝食も満足。
iPhoneでお気に入りの音楽を流しながら、書き物をしたり、昔書いたショートストーリーを読み直したり。
「罪悪感」について考えています。
平日、皆が働いている日に休むこと。仕事を頼んで遊んでいること。付き合いに縛られること。取り合えず働くことで、本当の自分と向き合うことを先延ばしにすること…。
こういう感情をクリアしていくのが今のテーマかな。そんな事をふと思いました。
そしてもうひとつ。
健やアラン、たくさんのメンターから学んでいる「無限の豊かさ」を、まだ本当に深いところでは信じ切れていないのだということ。
僕は何を怖れているのか、それはどこからきたものか。
多くは両親やきょうだい、おじやおば、祖父母から受け継ぎ、ある意味では「幼い自分」を護ってきてくれたことも事実です。社会のなかにもたくさんの怖れが渦巻いていて、さまざまなメディアが増幅してくれます。
なかには事実もあります。でも事実ばかりでもない。むしろ怖れは誇張され、喧伝され、利用されています。
そこから自由にならない限り、本当の幸福と豊かさは巡っては来ないのでしょうか?
というよりはむしろ、無数の豊かさと愛が降り注いできている事に気づかず、受け取ることも、ましてそれを味わうこともできずにいることの方が多いのかもしれません。
午後から東京芸術大学の美術館で開催中のシャガール展に行ってきました。
上野の森はひさしぶり。アジトモ50というイベントをやっているため、アジア各国の屋台がたくさんでていてたのしそう。ここは帰りに寄ることにして、まずは美術館へ。
ロシアのユダヤ人として産まれたシャガールには、ユダヤ的なもの、ロシア的なモチーフがたくさん絵のなかにでてきます。たとえば、伸びたヒゲの男、ロバ、農夫、バイオリン弾き、寒々しい村の風景。そこに聖書の世界(といっても旧約聖書の方です)、たとえば磔刑、モーゼ、天使などが加わります。
そしてもう一つ忘れてはならないのが、最愛の妻ベラの存在です。同郷のユダヤ人であり、豊かな家庭に産まれた美しいベラは、生涯、シャガールの愛の象徴としてたびたびキャンバスに現れているので、目にされた方も多いのではないでしょうか。

『誕生日』表参道のとある場所で見たことがあります。今回は展示されていません。

『Over the City』これもパリ時代。
学生のころからポスターを買って部屋に貼っていたほどシャガール好きなのですが、彼の生きた時代や背景にあるものをほとんど知らなかったので、今回の企画はツボにはまりました。
才能はあっても、ロシアのユダヤ人はまずしく、市民権を得たのはロシア革命後。才能を認められていても、母には現実的な選択と安定を望まれていたシャガール。それでも彼は一大決心をしてパリに旅立ちます。そこで芸術家たちのたまり場「蜂の巣」で数年を過ごし、ヨーロッパアートの系譜を美術館で、そして20世初頭のキュビズムなどをリアルタイムで吸収したうえで、彼独自の素朴さと自由さが花開いていきます。
ロシアに戻りベラと結婚。娘のイダが翌年誕生します。時はロシア革命前夜。アートの世界はアバンギャルドで、その大きな影響をシャガールの絵のなかに見いだせるのが今回の企画のメインテーマです。
その後再び故郷を離れ、パリに戻った後は『ラ・フォンテーヌ』の挿絵の仕事など精力的に活動。しかしヒットラーの台頭で、ドイツで作品は焼き討ちにあいます。戦火が及ぶ直前、シャガールはベラと娘を伴って、アメリカに亡命。ヨーロッパを逃れた芸術家たちと親交をあたためながら、自由な活動の時間を得ますが、帰国前には最愛の妻を亡くします。
終戦後は南仏で新たな活動を続け、ステンドグラスや舞台芸術、オペラ座の大天井(フレスコ画)まで手がけ、死の直前まで絵筆を握り続けました。享年97歳。
シャガールを見ていていつも思うのは、彼が20世紀の画家だということ。ピカソもそうですが、膨大な作品数とリトグラフや挿絵の仕事、芸術家の成功物語、戦争の影、活動の幅が広がり大衆にまで大きな影響を与えたこと、画商の存在。極めて20世紀的です。おかげで僕たちも到底すべては見きれないほどの作品点数があったり、リトグラフ作品を購入することも(気合いを入れればですが)不可能ではありません。
そういえば、ロンドンのテイトギャラリーに絵を観に行ったのに、お目当ての作品が海外に貸し出されていてかなわなかったことがあったっけ……。あのときはショックだった。でも、こうして日本にいながらにしてシャガールを堪能できるって、やっぱりありがたい。これって21世紀的なのかもしれませんね。
上野の森はひさしぶり。アジトモ50というイベントをやっているため、アジア各国の屋台がたくさんでていてたのしそう。ここは帰りに寄ることにして、まずは美術館へ。
ロシアのユダヤ人として産まれたシャガールには、ユダヤ的なもの、ロシア的なモチーフがたくさん絵のなかにでてきます。たとえば、伸びたヒゲの男、ロバ、農夫、バイオリン弾き、寒々しい村の風景。そこに聖書の世界(といっても旧約聖書の方です)、たとえば磔刑、モーゼ、天使などが加わります。
そしてもう一つ忘れてはならないのが、最愛の妻ベラの存在です。同郷のユダヤ人であり、豊かな家庭に産まれた美しいベラは、生涯、シャガールの愛の象徴としてたびたびキャンバスに現れているので、目にされた方も多いのではないでしょうか。

『誕生日』表参道のとある場所で見たことがあります。今回は展示されていません。

『Over the City』これもパリ時代。
学生のころからポスターを買って部屋に貼っていたほどシャガール好きなのですが、彼の生きた時代や背景にあるものをほとんど知らなかったので、今回の企画はツボにはまりました。
才能はあっても、ロシアのユダヤ人はまずしく、市民権を得たのはロシア革命後。才能を認められていても、母には現実的な選択と安定を望まれていたシャガール。それでも彼は一大決心をしてパリに旅立ちます。そこで芸術家たちのたまり場「蜂の巣」で数年を過ごし、ヨーロッパアートの系譜を美術館で、そして20世初頭のキュビズムなどをリアルタイムで吸収したうえで、彼独自の素朴さと自由さが花開いていきます。
ロシアに戻りベラと結婚。娘のイダが翌年誕生します。時はロシア革命前夜。アートの世界はアバンギャルドで、その大きな影響をシャガールの絵のなかに見いだせるのが今回の企画のメインテーマです。
その後再び故郷を離れ、パリに戻った後は『ラ・フォンテーヌ』の挿絵の仕事など精力的に活動。しかしヒットラーの台頭で、ドイツで作品は焼き討ちにあいます。戦火が及ぶ直前、シャガールはベラと娘を伴って、アメリカに亡命。ヨーロッパを逃れた芸術家たちと親交をあたためながら、自由な活動の時間を得ますが、帰国前には最愛の妻を亡くします。
終戦後は南仏で新たな活動を続け、ステンドグラスや舞台芸術、オペラ座の大天井(フレスコ画)まで手がけ、死の直前まで絵筆を握り続けました。享年97歳。
シャガールを見ていていつも思うのは、彼が20世紀の画家だということ。ピカソもそうですが、膨大な作品数とリトグラフや挿絵の仕事、芸術家の成功物語、戦争の影、活動の幅が広がり大衆にまで大きな影響を与えたこと、画商の存在。極めて20世紀的です。おかげで僕たちも到底すべては見きれないほどの作品点数があったり、リトグラフ作品を購入することも(気合いを入れればですが)不可能ではありません。
そういえば、ロンドンのテイトギャラリーに絵を観に行ったのに、お目当ての作品が海外に貸し出されていてかなわなかったことがあったっけ……。あのときはショックだった。でも、こうして日本にいながらにしてシャガールを堪能できるって、やっぱりありがたい。これって21世紀的なのかもしれませんね。