5. 自分自身を幸せにすることを許可し、いつも一番に気にかける!
自分のことよりも、つい人のことを優先してしまう。
そういう優しさってありますよね。
母親の愛がまさにそんな感じです。
自分が生んだ命が、自分が死んだあとにも続くように、
母親の存在は全力で我が子を育み、見守ります。
でも必ずどこかのタイミングで子育ては終わり、親子は別れます。
なぜなら、その方が子どもにとってはもちろん、親にとっても幸せだからです。
ここでお伝えしたいことは、実は、この親子の関係のことでは無いのです。
いつか終わってしまう(といっても関係性が終わるのではなく、一緒に暮らすことが終わるという意味で)親子関係ではなく、死ぬまで終わることのない「自分自身との関係」についてです。
自分のことよりも、人のことって良く見えますよね?
自分ごとよりも人のことの方が客観的に見えるし、
「もっとこうしたらいい」「そうすべきじゃない」とか、
いろいろと言いたいことが湧いてきたりもします。
でもいったんそう言いたい気持ちを置いといて、
「なぜ自分のことよりも、人のことが気になるのだろう?」
という質問を自分自身に投げかけてみてください。
すぐに、答えはでてこないかも知れません。
でも、人の姿を見てあれこれいいたい気持ちって、愛情なのかおせっかいなのか、
まあいろいろあるとは思いますが、アドバイスなり忠告なりを言われた相手が
素直に受け取るか、受け取れるかは、けっこう微妙だったりします。
なぜなら、それは単に、自分の気になる姿を相手に「投影」しているだけのケースがけっこうあるからです。
「投影」ってなに?
この「投影」という言葉を聞いたことがある人もいるでしょう。
簡単に言えば、「人の姿に、自分自身の気になるところを見てしまうこと」。
別の言い方をすれば「人が鏡のように自分の姿を映し出してくれること」とも言えます。
たとえば、自分でイケテナイと思うところがあったとします。
あるいは、昔、自分自身に投げかけられて密かに気になっていた(実はいまでも気になっている)言葉があったりします。
そういうのは誰でもたくさん当たり前のようにある訳です。
で、普段は元気に「私は大丈夫!」とか思っていても、ふとしたきっかけで、人の姿が気になってしょうがないとか、イライラしちゃったりとか、する訳ですが、そういうのもすべて「投影」の働きだ、という考え方です。
心理学の世界では、この「投影」を鍵に自分の心の問題、とらわれとか、心理的な抵抗感を手放すことなどに使われたりするので、大切な考え方だといわれています。
日常生活でも、人のことが気になることってたくさんありますよね?
で、それは相手の問題だと思いがちです(^^;
子どもの姿、パートナーの姿、会社の仲間、あるいはクラスメイト。
電車の隣の席の人の姿、お店の店員さんの姿、町を歩いている人の姿……
どんな場合でも「人のことが気になる」機会は無数にある訳です。
そして、その度に僕たちの心は動いて、気になったりするわけです。
もちろん、それが「素敵だなー」とか「かっこいいじゃん!」とかならいいのですが、「イケテないなー」とか「なんかサイアク…」と感じたときに、それを相手の側の問題だと思ってしまうとややこしくなるのです。
すると最初に書いた「自分ごとより相手のことが気になる」状態に陥っちゃうんです。
なぜ人ごとに首を突っ込みたくなるのか?
簡単に言ってしまうと、その方が簡単に「カイケツ」できる気がしちゃう訳です。
自分ごとは、先に書いたように客観的には見えないので、なにをどうしたら苦しい辛い状況から抜けられるのかが分かりません。
一方、自分以外の人のことは客観的に(ある程度は)見えるので、なにをどうしたら良いかが分かる気がします。
でも、ここが肝心なのですが、相手がその「カイケツ」とやらを本当に望んでいるかは別問題。
そして、愛情の押し売りみたいになっちゃってかえって「ウザいな~」と思われたりして、なんだか損した気分になったり、逆ギレしたり、さらに感情的にややこしくなりがち。
だからここはすっぱり、人ごとと自分ごとを分けて考えた方がいいんです。
少なくとも、相手からアドバイスを求められるまではおせっかいはしない方が良かったりします。
だって、僕たちにはもっと身近に、もっと困っていて、切実に助けを求めている人がいるのですから。
そう、「自分自身」のことです。
自分を幸せにすることに「OK」を出そう。
たとえば、こんなことはありませんか?
「あれが終わったら自分のことをやろう」
「人に頼まれたら断れない」
「まだ休むわけにはいかない」
「やるべきことがあるはずなのに、つい後回しにしがち」
「仕事で成果が出ても嬉しくない」
「もうちょっと貯金しとかないと」
「まだまだ勉強が足りない!」
単なるお人好しにみえるかも知れませんが、つい自分ごとより人ごとを優先する「やさしい人」ってけっこう身近にいませんか?あなた自身かもしれませんし、僕自身かもしれません。
会社員のなかには、会社の仕事の成果=自分の人生の成果、という考え方を持つ方もいるでしょう。それはもちろん価値観ですから良し悪しは決して語れません。でも、たくさん成果を出して社長賞とかとったりボーナスをもらったりして、パートナーにも「ありがとう☆」とかいわれたとしても、どこか素直に喜べない自分に気づいちゃったりします(僕自身がそうでした!)。
人生の優先順位を考えたとき、あるいは自分がもう既にある程度の年をとっていることに気づいたり(すべての人にとってイタイ!話題かもしれません…笑)、夢を描いてもなかなかそれが実現しないことに愕然としたり(これもイタタタ…苦笑)、そういうことってありませんか?
僕は昔から「イルカと一緒に泳ぎたい」という夢を持っていました。
そんなのは到底叶わない夢だと諦めてもいたし、お金と時間がたくさん必要だと思ってました。
でも、ある人に、実は日本でもイルカと泳げる海があって、意外と簡単に夢が叶うと教えてもらいました。
インターネットで調べてみると、たくさんツアーもあったりして、あとは「やる気」だけだと気づいたのです。
でもあれこれいい訳をしていたらあっという間に数年が経ちました。
で、なにかのきっかけで「もう、先延ばしは止めよう」と思い至ったのです。
そしてその年の夏には、もうイルカと一緒に泳いでいる僕がいたのです。
「一度決めれば、夢が叶うのはむずかしいことじゃない」
そんなアドバイスをもらったこともありました。
そして、本当にそうだなと今は思います。
「夢が叶わないのは本気じゃないから」
そういう意見もあります。
それも真実だなと感じています。
だから、僕の人生の時間を使って、やりたいこと、幸せになることに「本気」で向き合えば、意外と幸せに生きること、夢を実現することって大変じゃなくて、ただ楽しいプロセスなのではないかな。そんな風に感じています。
「自分が一番の友達」と言うとなんだか「さみしくない?」とかいわれそうですが(^^;
自分のことを自分で知ること、自分の感情、気持ち、考え、記憶……そういうことに意識を向け続けていると、自分のことを愛おしく思えてきます。
いろいろ後悔することもあるし、失敗も無数にあるのだけど、そしてイタイ想いやクルシイ想いもたくさんあったりするのですが、それさえも愛おしくなれるとしたら、人生がきっとうまく回っている証拠です。
そういった生き方って、たぶん死を迎えた瞬間に
「ああ、いい人生だったな」
きっとそう思えるのではないでしょうか。
参考:
http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2012/feb/01/top-five-regrets-of-the-dying
4. 友達と会う機会を大切にもち、良い関係を保つことを忘れない
先日、ある友達と新宿で中華料理を食べました。
昼時にもかかわらず店内は静かで、案内された席がちょっとしたブース(囲み)になっていたせいもあり、お互いの家庭のこと、共通の友人のこと、仕事のことなど、つもる話を散々して別れたのですが、あっという間の楽しい時間を過ごすことができました。
彼とはあるセミナーで一緒になったあと、色んな機会で出会うことが多く、親しくなりました。
僕は出版のプロとして、彼は会計のプロとして、お互いの意見を聞いたり言ったり、気さくに相談しています。年末調整では僕はすっかり彼のお世話になりました。
そういえば、その数日前にも不動産コンサルタントの友人に、昼を食べながらいろいろとアドバイスをもらったばかり。
困ったときやなにかアドバイスがほしいとき、友人に助けられることが多いのですが、いつも本当にありがたいな、ご縁に恵まれているなと感謝しています。
「ご縁」ってそもそもなに?
たとえば、こんなことはありませんか?
「なんかこの人、始めてあった気がしない」
「どこかで見たことある顔だ」
「どうしてこんなに気が合うのか不思議!」
「絶対、どこかでなにか関係があったんじゃないだろうか…??」
それこそひょっとして、どこかでなにかのご縁がある人かもしれませんね。
田舎が一緒で、高校も同じだったとか、
昔、同じマンションに知らずに住んでいたとか、
母親が友人どうしだったとか、
応援していたサッカーチームが下部リーグに降格した瞬間、同じゴール裏にいたとか…
たとえば、そんな「ありえない」と思えることも、じっさいには「ありえる」からおもしろい^^
偶然と呼ぶには無視できない、なんだかゾクゾクするような奇跡の出会い=縁もあったりします。
「ご縁」とはきっと、頭では理解できないけれど、無意識とか魂のレベルでつながりのある、人と人との関係性のことを言うのではないか、と僕は思っています。
だから僕の口癖は「この出会いは偶然じゃなくて必然なんです」。
ま、いきなりそんなこと言われて、引いてしまう相手もいるのですけどね(^^;
友達との「ご縁」はけっこう波がある
例えば学生時代同じサークルだったり、なにかの合宿で一生忘れられない体験をした仲だったり、職場でいっしょに苦労も喜びも味わったりするなかで、生涯の友人ができるものです。
友達との間に濃厚な時間が流れ、共通体験というか、共同創造した宝物のような経験。その体験、経験があるから今の自分がある、と思えるほどの大切で貴重な時間は、人が成長する瞬間であり、その前後でガラリと自分や仲間の在り方が変わる時間でもあります。
そんな体験を共有した仲間とは、きっと一生つきあいたい、と思うことでしょう。
でも、出会い、いっしょに時間を過ごし、なにかを体験しあい、影響し合い……という濃い時間がすぎたあとは、自然と次のステージにお互いが進みます。だから、そのあとでご縁が遠く感じるようになるのはごく自然なことともいえます。
どちらかが次のステージに移ったあとは、どんなに仲が良く緊密な間柄だったとしても、それこそ毎日昼飯はいっしょで、休み時間に欠かさずサッカーをしていたとか、同じチームで朝から夜中まで課題に取り組んでいたような関係も、ある日を境に縁が切れたようになってしまい、その後は何年も連絡を取り合わなくなってしまったとか、年賀状を出し忘れ、連絡先が分からなくなってしまうことなどもありますよね。
最近はフェイスブックがあり、メルアドや携帯の番号が変わらない限り、まったく連絡が取れなくなることもないのですが、親しかった友人の近況が分からなくなることはママあります。
なぜご縁が切れる?
そもそも縁とは自由につながったり切れたりするものなのでしょうか?
僕の個人的な考え方ですが、おそらく、縁は切れるものではなくて、一見切れたように見えたり疎遠になることはあるけれど、みずから「縁を切ろう」としない限りずっと続くものだと思います。
縁を切る=二度と連絡を取り合わなくなる、あるいは記憶にすら残らなくなる
というのは、よっぽど何かがあったのでしょう。でも、そんな関係すらもご縁という気もするのですが、それはともかく、縁が切れるというよりも、正しくは関係性が薄くなり、緊密にやり取りする時間が減る(しばらく途絶える)ということなのではないでしょうか。
だから、数十年ぶりにクラス会を主催しても、縁がつながっていれば(あるいは連絡先が分かれば)また再会することはできますよね。
そして、その間のお互いの成長を確かめ合ったり、全然変わらないところを確かめ合ったりしながら、また新たな関係性を築く楽しさ、喜びというものがあります。
会いたいと思うときに友はいず
最初のメメントモリに話を戻すと(幸せな人生を生きる5つのヒント 1)、死ぬときに思い出すのは、そういった濃厚な時間のなかで得た体験だったり、その体験をいっしょにした仲間の顔だというのです。
「だから友達を大切にしましょう」と言っちゃうと、なんだか教科書みたいですが、
そう言いたい気持ちも少しあります。
でももっと言いたいのは、「ご縁」を大切に生きていると、毎日感謝がいっぱいになるということ。友達とのご縁だけじゃなく、同じ職場や学校、サークル、あるいは会議とか研修とかでも、何かしらご一緒するのは、やはり「ご縁」だと思うのです。
そういった出会いのひとつひとつを大切に生きていると、毎日感謝することだらけだし、一人一人の存在が奇跡的で、たとえ自分が落ち込んでいたり、相手が落ち込んでいるときでさえも、ご縁を感じつつ接していることが、お互いの魂を少し元気にしてくれることが多いように思うのです。
先日、ある友達と新宿で中華料理を食べました。
昼時にもかかわらず店内は静かで、案内された席がちょっとしたブース(囲み)になっていたせいもあり、お互いの家庭のこと、共通の友人のこと、仕事のことなど、つもる話を散々して別れたのですが、あっという間の楽しい時間を過ごすことができました。
彼とはあるセミナーで一緒になったあと、色んな機会で出会うことが多く、親しくなりました。
僕は出版のプロとして、彼は会計のプロとして、お互いの意見を聞いたり言ったり、気さくに相談しています。年末調整では僕はすっかり彼のお世話になりました。
そういえば、その数日前にも不動産コンサルタントの友人に、昼を食べながらいろいろとアドバイスをもらったばかり。
困ったときやなにかアドバイスがほしいとき、友人に助けられることが多いのですが、いつも本当にありがたいな、ご縁に恵まれているなと感謝しています。
「ご縁」ってそもそもなに?
たとえば、こんなことはありませんか?
「なんかこの人、始めてあった気がしない」
「どこかで見たことある顔だ」
「どうしてこんなに気が合うのか不思議!」
「絶対、どこかでなにか関係があったんじゃないだろうか…??」
それこそひょっとして、どこかでなにかのご縁がある人かもしれませんね。
田舎が一緒で、高校も同じだったとか、
昔、同じマンションに知らずに住んでいたとか、
母親が友人どうしだったとか、
応援していたサッカーチームが下部リーグに降格した瞬間、同じゴール裏にいたとか…
たとえば、そんな「ありえない」と思えることも、じっさいには「ありえる」からおもしろい^^
偶然と呼ぶには無視できない、なんだかゾクゾクするような奇跡の出会い=縁もあったりします。
「ご縁」とはきっと、頭では理解できないけれど、無意識とか魂のレベルでつながりのある、人と人との関係性のことを言うのではないか、と僕は思っています。
だから僕の口癖は「この出会いは偶然じゃなくて必然なんです」。
ま、いきなりそんなこと言われて、引いてしまう相手もいるのですけどね(^^;
友達との「ご縁」はけっこう波がある
例えば学生時代同じサークルだったり、なにかの合宿で一生忘れられない体験をした仲だったり、職場でいっしょに苦労も喜びも味わったりするなかで、生涯の友人ができるものです。
友達との間に濃厚な時間が流れ、共通体験というか、共同創造した宝物のような経験。その体験、経験があるから今の自分がある、と思えるほどの大切で貴重な時間は、人が成長する瞬間であり、その前後でガラリと自分や仲間の在り方が変わる時間でもあります。
そんな体験を共有した仲間とは、きっと一生つきあいたい、と思うことでしょう。
でも、出会い、いっしょに時間を過ごし、なにかを体験しあい、影響し合い……という濃い時間がすぎたあとは、自然と次のステージにお互いが進みます。だから、そのあとでご縁が遠く感じるようになるのはごく自然なことともいえます。
どちらかが次のステージに移ったあとは、どんなに仲が良く緊密な間柄だったとしても、それこそ毎日昼飯はいっしょで、休み時間に欠かさずサッカーをしていたとか、同じチームで朝から夜中まで課題に取り組んでいたような関係も、ある日を境に縁が切れたようになってしまい、その後は何年も連絡を取り合わなくなってしまったとか、年賀状を出し忘れ、連絡先が分からなくなってしまうことなどもありますよね。
最近はフェイスブックがあり、メルアドや携帯の番号が変わらない限り、まったく連絡が取れなくなることもないのですが、親しかった友人の近況が分からなくなることはママあります。
なぜご縁が切れる?
そもそも縁とは自由につながったり切れたりするものなのでしょうか?
僕の個人的な考え方ですが、おそらく、縁は切れるものではなくて、一見切れたように見えたり疎遠になることはあるけれど、みずから「縁を切ろう」としない限りずっと続くものだと思います。
縁を切る=二度と連絡を取り合わなくなる、あるいは記憶にすら残らなくなる
というのは、よっぽど何かがあったのでしょう。でも、そんな関係すらもご縁という気もするのですが、それはともかく、縁が切れるというよりも、正しくは関係性が薄くなり、緊密にやり取りする時間が減る(しばらく途絶える)ということなのではないでしょうか。
だから、数十年ぶりにクラス会を主催しても、縁がつながっていれば(あるいは連絡先が分かれば)また再会することはできますよね。
そして、その間のお互いの成長を確かめ合ったり、全然変わらないところを確かめ合ったりしながら、また新たな関係性を築く楽しさ、喜びというものがあります。
会いたいと思うときに友はいず
最初のメメントモリに話を戻すと(幸せな人生を生きる5つのヒント 1)、死ぬときに思い出すのは、そういった濃厚な時間のなかで得た体験だったり、その体験をいっしょにした仲間の顔だというのです。
「だから友達を大切にしましょう」と言っちゃうと、なんだか教科書みたいですが、
そう言いたい気持ちも少しあります。
でももっと言いたいのは、「ご縁」を大切に生きていると、毎日感謝がいっぱいになるということ。友達とのご縁だけじゃなく、同じ職場や学校、サークル、あるいは会議とか研修とかでも、何かしらご一緒するのは、やはり「ご縁」だと思うのです。
そういった出会いのひとつひとつを大切に生きていると、毎日感謝することだらけだし、一人一人の存在が奇跡的で、たとえ自分が落ち込んでいたり、相手が落ち込んでいるときでさえも、ご縁を感じつつ接していることが、お互いの魂を少し元気にしてくれることが多いように思うのです。
3. いつも自分の感情や気持ちに正直に生きる!
最初に正直に言ってしまいます。
実は、僕はいつも感情をあらわにしたり、気持ちに正直に生きるのが苦手です(^^;
いつもクールに装っていることが多いので、それが習い性になってしまいました…。
でも幸い、身近に感情と気持ちに正直な人がたくさんいて、彼らの生き方から日々楽しく学んでいます。
僕がつきあう人は著者関係が多いのですが、作家、写真家、編集者、デザイナーなどアーティストやクリエイターが多くいます。そういった人のなかでも、特に一流の人のなかには、豊かな感性をもつ人が多いのですが、タイプとして2つあります。
豊かな感性をただ反射的に表に出すタイプと、それをひと飲みして、独特の表現で自分の感性を表現するタイプです。
前者の「反射的な感性」を持つ人は、その才能を最大限活かして生きているので、例えば写真家のなかに多いタイプとも言えます。シャッターチャンスが訪れるのはほんの一瞬だったりしますから!
この生き方は、一見楽なようでいて、痛みもたくさん感じています。そして、その人に周りの人が慣れるには、少し時間が必要かもしれません。ただ慣れてしまえば良いだけなのですが、感性の鋭さと正直さを好きになる人とそうでない人とに往々にして分かれます。
ちなみに、うちの奥さんは前者のタイプ。
いつも正直すぎて、「よくそんなこと言えるなー」と今もって感心することも多いのですが(だからパートナーがクールになる?)、そのユニークな在り方、発言、行動は飽きさせません!
そして2番めの「独特の表現で自分の感性を表現するタイプ」は、まさに作家に多いです。
一癖ある、ひねりが利いている、ウィットに富んでいる……色んな言い方がありますが、その柔らかくしなやかな感性には感動すら覚えます。
どちらのタイプにも言えることは「幸せに生きているなー」と思わせてくれる存在だということです。
なぜ感情や気持ちを表現できない?
子供の頃の自分を振り返ってみると、なぜ感情や気持ちにフタをしてしまったのかが少し見えてきます。僕の場合、思いつくままに理由らしきものをあげてみると、
・周りの家族が元気すぎて、そのバランスを自然ととっていた
・転勤族で、新しい環境になじむのにいつも苦労していた
・「良い子」でいることを大人から求められ、自然と望まれる行動をとっていた
・「恥ずかしい」「ダメ」「いけない」という抑制ワードを家族がよく使い、
いつの間にか自分で自分に同じ言葉を投げかけるようになっていた。
・クールを装う=カッコイイ、という価値観を身につけていた
・泣く、怒る、悲しむ、寂しがる……そういった感情はすべて「表に出してはいけないもの」という観念を持ってしまった
理由はひとつではないかも知れません。どれも思い当たるような気もします。一般論としてはなかなか語れないのですが、きっと「そうそう、そういうことあるよね」と共感してくれる方もいるのではないでしょうか。
特に僕の場合は、「恥ずかしい」「良い子でいよう」そして最後の「表出禁止」が3大理由かもしれません。
感情のフタを外すのは怖い?
感情にフォーカスしない、できない、感じない生き方を始めてしまうと、どうなるでしょう?
自分自身の感情に「フタ」をする生き方、自分で自分のことが分からない……まして、そのこと自体を自覚できていない、ある意味「深刻」な状態を例に、どんな症状があるかというと、
・レストランでメニューが選べない(人と同じものを選ぶ)
・人が映画やテレビで泣くのが理解できない
・ありがとう、と口で言っても笑顔がない
・人から「よくわからない人」と思われがち(ただし自覚症状なし)
・人の痛みに共感できない(全く人ごと、自分と無関係と感じる)
・存在感が薄い
・料理の味がしない
・匂いに鈍感
・色んなことに鈍い(地震とか環境変化とかに気づかない)
・好きな人がいない(恋人から芸人まで)
ちょっとドキッとしましたか?
身近な人の顔が思い浮かびましたか?
それとも「そんな人いるの」と思いましたか?
結局、感情のフタをしていることがなにを意味しているかといえば、簡単に言ってしまうと「自分で自分を守っている」のです。
習慣、習い症で続けていることには、変化へのおそれ、防衛本能も深くかかわっているものです。これは人間の本質的な反応なので、良いわるいではないのです。
ただ、もし本人が
「なんか幸せな気がしないな」とか
「恋人が欲しいな」とか
「毎日、つまんない生き方だな」など
困っていたり、変化を求めているのなら、そのためにどうしたら良いかのヒントに「感情」というものがあるのだということを知っておいてください。
「フタを外す」には練習しかない
身も蓋もない言い方ですが、感情のフタを外すのはけっこうむずかしいんです。
これは事実だから、はっきり言ってしまいます。
たとえば、感情、感性豊かな人が言いそうなセリフを、ひとりのとき、鏡に向かって言ってみましょう。
「花がきれいだな」
「あの人かっこいいな」
「オレっていけてる?」
「昨日の晩ご飯おいしかった」
「あなたって最高だね!」
どうですか?
もし自分で言っていて嘘っぽく聞こえるとしたら、あなたは重傷かも知れません(笑
まずは鏡に向かって「セリフ」でも良いので、語りかける練習をしましょう。
そして、その嘘っぽさ、むずがゆさ、バカバカしさに慣れてきたら、身近な家族にそれと同じセリフを伝えるのです。
もし面と向かって言うのがむずかしければ、わざと聞こえるように大きな声で「独り言」をいってもいいでしょう。
そのときの家族の反応がどんなにクールでも、自分で冷や汗をかいていても、それに耐えましょう(笑
なかには、そのあなたのセリフに共感してくれる人、「そうだね!」と返してくれる人がいたら、その嬉しさ、喜びを味わってみましょう。そう、まさにこれは「リハビリ」なんです。
リハビリを繰り返すうちに、あなたのなかの「大好き」「嬉しい」「おいしい」だけじゃなく、「さみしい」「痛い」「苦しい」「もういやだ」といったネガティブな感情も現れてきます。
もしそうなったら、それらの感情を表に出すことを、自分自身に許してあげてください。
恥ずかしければ、トイレや風呂場にこもって、あるいは布団をかぶって、その押さえていた感情をすべて吐き出し、味わい、感じてみましょう!
きっと、しばらく時間がたてば、心には前よりも平安な時間が流れているのを感じることができるはずです。
おめでとうございます。
感情のフタが外れ始めましたね(^^
最初に正直に言ってしまいます。
実は、僕はいつも感情をあらわにしたり、気持ちに正直に生きるのが苦手です(^^;
いつもクールに装っていることが多いので、それが習い性になってしまいました…。
でも幸い、身近に感情と気持ちに正直な人がたくさんいて、彼らの生き方から日々楽しく学んでいます。
僕がつきあう人は著者関係が多いのですが、作家、写真家、編集者、デザイナーなどアーティストやクリエイターが多くいます。そういった人のなかでも、特に一流の人のなかには、豊かな感性をもつ人が多いのですが、タイプとして2つあります。
豊かな感性をただ反射的に表に出すタイプと、それをひと飲みして、独特の表現で自分の感性を表現するタイプです。
前者の「反射的な感性」を持つ人は、その才能を最大限活かして生きているので、例えば写真家のなかに多いタイプとも言えます。シャッターチャンスが訪れるのはほんの一瞬だったりしますから!
この生き方は、一見楽なようでいて、痛みもたくさん感じています。そして、その人に周りの人が慣れるには、少し時間が必要かもしれません。ただ慣れてしまえば良いだけなのですが、感性の鋭さと正直さを好きになる人とそうでない人とに往々にして分かれます。
ちなみに、うちの奥さんは前者のタイプ。
いつも正直すぎて、「よくそんなこと言えるなー」と今もって感心することも多いのですが(だからパートナーがクールになる?)、そのユニークな在り方、発言、行動は飽きさせません!
そして2番めの「独特の表現で自分の感性を表現するタイプ」は、まさに作家に多いです。
一癖ある、ひねりが利いている、ウィットに富んでいる……色んな言い方がありますが、その柔らかくしなやかな感性には感動すら覚えます。
どちらのタイプにも言えることは「幸せに生きているなー」と思わせてくれる存在だということです。
なぜ感情や気持ちを表現できない?
子供の頃の自分を振り返ってみると、なぜ感情や気持ちにフタをしてしまったのかが少し見えてきます。僕の場合、思いつくままに理由らしきものをあげてみると、
・周りの家族が元気すぎて、そのバランスを自然ととっていた
・転勤族で、新しい環境になじむのにいつも苦労していた
・「良い子」でいることを大人から求められ、自然と望まれる行動をとっていた
・「恥ずかしい」「ダメ」「いけない」という抑制ワードを家族がよく使い、
いつの間にか自分で自分に同じ言葉を投げかけるようになっていた。
・クールを装う=カッコイイ、という価値観を身につけていた
・泣く、怒る、悲しむ、寂しがる……そういった感情はすべて「表に出してはいけないもの」という観念を持ってしまった
理由はひとつではないかも知れません。どれも思い当たるような気もします。一般論としてはなかなか語れないのですが、きっと「そうそう、そういうことあるよね」と共感してくれる方もいるのではないでしょうか。
特に僕の場合は、「恥ずかしい」「良い子でいよう」そして最後の「表出禁止」が3大理由かもしれません。
感情のフタを外すのは怖い?
感情にフォーカスしない、できない、感じない生き方を始めてしまうと、どうなるでしょう?
自分自身の感情に「フタ」をする生き方、自分で自分のことが分からない……まして、そのこと自体を自覚できていない、ある意味「深刻」な状態を例に、どんな症状があるかというと、
・レストランでメニューが選べない(人と同じものを選ぶ)
・人が映画やテレビで泣くのが理解できない
・ありがとう、と口で言っても笑顔がない
・人から「よくわからない人」と思われがち(ただし自覚症状なし)
・人の痛みに共感できない(全く人ごと、自分と無関係と感じる)
・存在感が薄い
・料理の味がしない
・匂いに鈍感
・色んなことに鈍い(地震とか環境変化とかに気づかない)
・好きな人がいない(恋人から芸人まで)
ちょっとドキッとしましたか?
身近な人の顔が思い浮かびましたか?
それとも「そんな人いるの」と思いましたか?
結局、感情のフタをしていることがなにを意味しているかといえば、簡単に言ってしまうと「自分で自分を守っている」のです。
習慣、習い症で続けていることには、変化へのおそれ、防衛本能も深くかかわっているものです。これは人間の本質的な反応なので、良いわるいではないのです。
ただ、もし本人が
「なんか幸せな気がしないな」とか
「恋人が欲しいな」とか
「毎日、つまんない生き方だな」など
困っていたり、変化を求めているのなら、そのためにどうしたら良いかのヒントに「感情」というものがあるのだということを知っておいてください。
「フタを外す」には練習しかない
身も蓋もない言い方ですが、感情のフタを外すのはけっこうむずかしいんです。
これは事実だから、はっきり言ってしまいます。
たとえば、感情、感性豊かな人が言いそうなセリフを、ひとりのとき、鏡に向かって言ってみましょう。
「花がきれいだな」
「あの人かっこいいな」
「オレっていけてる?」
「昨日の晩ご飯おいしかった」
「あなたって最高だね!」
どうですか?
もし自分で言っていて嘘っぽく聞こえるとしたら、あなたは重傷かも知れません(笑
まずは鏡に向かって「セリフ」でも良いので、語りかける練習をしましょう。
そして、その嘘っぽさ、むずがゆさ、バカバカしさに慣れてきたら、身近な家族にそれと同じセリフを伝えるのです。
もし面と向かって言うのがむずかしければ、わざと聞こえるように大きな声で「独り言」をいってもいいでしょう。
そのときの家族の反応がどんなにクールでも、自分で冷や汗をかいていても、それに耐えましょう(笑
なかには、そのあなたのセリフに共感してくれる人、「そうだね!」と返してくれる人がいたら、その嬉しさ、喜びを味わってみましょう。そう、まさにこれは「リハビリ」なんです。
リハビリを繰り返すうちに、あなたのなかの「大好き」「嬉しい」「おいしい」だけじゃなく、「さみしい」「痛い」「苦しい」「もういやだ」といったネガティブな感情も現れてきます。
もしそうなったら、それらの感情を表に出すことを、自分自身に許してあげてください。
恥ずかしければ、トイレや風呂場にこもって、あるいは布団をかぶって、その押さえていた感情をすべて吐き出し、味わい、感じてみましょう!
きっと、しばらく時間がたてば、心には前よりも平安な時間が流れているのを感じることができるはずです。
おめでとうございます。
感情のフタが外れ始めましたね(^^
2. 何かほかのもののために必死に働くのを止める
仕事をしている人に「あなたは何のために働いていますか?」と聞くと、どんな答えが返ってくるでしょうか。
家族
子ども
親
会社のため
仲間のため
お客様のため
地域社会のため
環境を良くするため…
そして、自分のため。
きっと働くひと一人一人、色んな理由があると思います。
答えもひとつではなく、その優先順も違うでしょう。
僕自身のことで言えば、実は少し前まで「会社のため」に働いていました。
前にも少し書いたことがあるのですが、大好きで入社した出版社が買収され4億円の借金を親会社に対して負ったとき、同じ会社の仲間がみんな安心しているのをみて「まずい」と危機感を持ちました。この根拠のない安心感は会社をダメにするし、存在価値を急速に落とすだろうと。
それで頑張ってあるプロジェクトをマネジメントすることに(自然と)なって、毎年2億の利益を生んで、会社の決算を毎年1億の黒字とし、4年間で4億の借金を一掃しました。
でも、それがすべて終わったときに、僕にはほとんど喜びらしいものはありませんでした。
確かに社長賞はもらったし、「よくやった」と声をかけてくれる人もいました。
でも、僕は密かに立ち上げたプロジェクトが周りを巻き込んで成功した喜びよりも、それによって払った犠牲の大きさに後になって気づかされるのです。
もちろん、数字を実現するための条件はすべて満たしていました。
・既存商品の見直し
・綿密なマーケットリサーチ
・リサーチに基づいた新規商品の投入
・詳細な年間計画の提言と実現
・プロジェクトメンバーとの緊密なコミュニケーション
・徹底した原価と品質管理
・マニュアルの制作とチェック体制
・協力会社と連携した品質・進行管理
・アンケートシステムの導入とレポートのシェア
・顧客満足度の向上
その他にも、商品づくりにたくさんのアイデアを盛り込んで、成功してみせることで、同じプロジェクトメンバーが真似したくなることを通じて商品の新しい統一規格を導入するなど、けっこう夢中になって走り続けました。
一見すると、どれもすばらしことばかり。
まるでプロジェクトマネジメントの教科書にでてくる成功ストーリーのようです(実際たくさん勉強しました)。
そのおかげで、その商品群はいつの間にかマーケットシェア&売上でナンバー1になり、並みいるライバルがどんどん売上を落としていくなかで、業界紙にインタビューされ、大きく取り上げられたりしました。
でもこれらはすべて、自分自身の人生の喜びを見失い、家族の体調悪化を見落とし、ただ数字を追いかけることだけにフォーカスして得た結果だったのです。
自分が「働く」理由は何か?
日本人にありがちな気がするのですが、「一生懸命働く」ことへの評価がとても高く、結果如何よりも、汗をかくことをよしとする価値感が広く共有されているようです。
・結果はコントロールできないけれど、常にベストを尽くすことはできるはず
・汗をかいた分だけ認められる
・何でも一生懸命にやる姿は美しい
・自分の一生懸命が仲間にも伝播する
・その結果、最高の結果がえられる
たぶん、ここにあげたことはすべて事実でしょう。
僕も実感しました!
でも、だからといって「自分がなにを一番大切にしているか」が分からなくなってしまっては、元も子もありません。
僕の場合、自分の人生の喜びがいつの間にか失われ、家族の体調がどんどんわるくなっていってもなす術もなく、毎日「ごめん……」と言いつつなかば見殺しにしてしまったのです。
もちろん、そのツケはとても大きなものでした。
幸い、この1年間で多少なりとも良くなってきた兆候はあるのですが、まだまだ完全とはいえませんし、今でも毎日の苦労はあります。でも、今の家族の在り方の方が、1年前よりも遥かに幸せだと実感しています。
自分自身が目標に設定したこと、あるいは生きる上での価値観を、いま一度疑ってみること。
これはなかなかできることではないでしょう。
なぜなら、その結果がどうなるかを想像することはむずかしく、身近にいる人に意見を求めても「いいんじゃないの」ぐらいの意見しかでてこないでしょうから。
おそらく、本当に人生経験が豊富で(つまりたくさんの失敗と成功を経験している)、人生を見通す力を得た人でないと、「いま一度疑う」ことはほとんど不可能かもしれません。
人は誰でも失敗からしか学べない、と言う意見もあります。
でも、もし「いま一度疑う」とか「本当の幸せがなにかを見通す」ことができるのであれば、僕のような失敗を経験することなく、自分と家族の幸せを選ぶことだってできると思うのです。
自分の人生の幸せを「定義」する
こんな人生の失敗を経験してから、僕は家族と一緒に「なにが幸せか」を良く話し合うようになりました。
今の僕たち家族の幸せの定義は、かなりはっきりしています。
・いつでも自由に話し合えること
・健康になる
・愛し合う
・衣食住に喜びと遊び心を
・一緒に遊ぶ
・お互いを尊重し合う
・好きな国に好きなだけ滞在できる自由を手に入れる
そして、これを実現するには「会社員ではダメだ」と言うことがはっきりしました。
もう会社は「卒業」したはずなのですが、今もって業務委託という契約で編集仕事をしている関係で、時間的な自由度がかなり犠牲になっています(金銭的には助かるとはいえ)。
と同時に、精神的にも独立独歩ではなく、相変わらず大きな木下で守られつつ、そのシステムの一部となる生き方を選んでもいます。実質的にはサラリーマンとあまり変わりがない、という訳です。
だから僕たちの幸せを実現するには、今、さらなる「次の一歩」が必要なタイミングを迎えています。
自分自身の「奴隷解放宣言」!
アメリカ南北戦争が終わって、リンカーン大統領によって「奴隷解放宣言」がなされた後の話です。すべての「元」奴隷が自由をすぐに選んだかというと、どうもそうではなかったようです。
自分自身で生きる力を失っていた「元」奴隷たちは、相も変わらず同じ生き方を選んだのだそうです。
つまり、主人の元で言われたことをただ淡々とこなし、少ない手当にも甘んじて生きる。与えられた衣食住環境に不平を言わずに、ただ感謝をするという生き方です。
おそらく、その次の世代にならないと、本当の意味での「奴隷解放」はなされなかったでしょうし、「元」奴隷たちが本当の社会的な自由を手に入れるには、長い闘いの歴史が続く訳ですが……この話、とても人ごとと思えないのは僕だけでしょうか?
サラリーマンを卒業して、いかに会社が社員を守っているかが良ーく分かりました。
サラリーマンであれば、保険や税金、社会保障はもとより、日々の交通費や諸経費について、ほとんど考えることはないでしょう。
でも同時に、自分がいくらの価値を社会に提供しているか、その何十分の一しか実際には受け取っていないかったかについても、良くわかっていました。
曲がりなりにもビジネスを(仲間に応援されながら)立ち上げて、直接お客さん(というか仲間)からお金をいただくことを続けているうちに、その喜びと大変さを同時に味わっている訳ですが、「全体を設計して回すこと」の楽しさと苦労は、サラリーマンでは味わえない類いの体験でした。そしてそれは、甘えが通用しない世界とも言えます。
自分の「甘さ」に気づき、誰もお尻を叩いてくれないこと(妻をのぞいて)、結果も喜びもすべて自分次第であることを、体験してみて始めて知りました。これは財産以外の何者でもありません。
そして、自分に誓ったのです。
もう自分自身をなにか自分以外の存在が作ったルールに縛りつけるのは止めよう!
誰か他の人や組織やらに人生の責任を取らせるのは止めよう。
自分の人生に起こることすべては自分が選んだ結果だと知ろう。
……だからといって、交通ルールを無視したり、税金を滞納しようと言うのではありません(笑
そういう小さな話ではなく、また他人の自由を侵害するような類いの「自由」を主張するのでもなく、これは「生き方」の話です。
自分で自分の人生のすべてに責任を持ちながら、
その「選択の自由」を常に自分の手のうちに持つこと。
つまり、目の前にあることすべては「自分の選択の結果である」と深いところで自覚することなのです。
(続く)
仕事をしている人に「あなたは何のために働いていますか?」と聞くと、どんな答えが返ってくるでしょうか。
家族
子ども
親
会社のため
仲間のため
お客様のため
地域社会のため
環境を良くするため…
そして、自分のため。
きっと働くひと一人一人、色んな理由があると思います。
答えもひとつではなく、その優先順も違うでしょう。
僕自身のことで言えば、実は少し前まで「会社のため」に働いていました。
前にも少し書いたことがあるのですが、大好きで入社した出版社が買収され4億円の借金を親会社に対して負ったとき、同じ会社の仲間がみんな安心しているのをみて「まずい」と危機感を持ちました。この根拠のない安心感は会社をダメにするし、存在価値を急速に落とすだろうと。
それで頑張ってあるプロジェクトをマネジメントすることに(自然と)なって、毎年2億の利益を生んで、会社の決算を毎年1億の黒字とし、4年間で4億の借金を一掃しました。
でも、それがすべて終わったときに、僕にはほとんど喜びらしいものはありませんでした。
確かに社長賞はもらったし、「よくやった」と声をかけてくれる人もいました。
でも、僕は密かに立ち上げたプロジェクトが周りを巻き込んで成功した喜びよりも、それによって払った犠牲の大きさに後になって気づかされるのです。
もちろん、数字を実現するための条件はすべて満たしていました。
・既存商品の見直し
・綿密なマーケットリサーチ
・リサーチに基づいた新規商品の投入
・詳細な年間計画の提言と実現
・プロジェクトメンバーとの緊密なコミュニケーション
・徹底した原価と品質管理
・マニュアルの制作とチェック体制
・協力会社と連携した品質・進行管理
・アンケートシステムの導入とレポートのシェア
・顧客満足度の向上
その他にも、商品づくりにたくさんのアイデアを盛り込んで、成功してみせることで、同じプロジェクトメンバーが真似したくなることを通じて商品の新しい統一規格を導入するなど、けっこう夢中になって走り続けました。
一見すると、どれもすばらしことばかり。
まるでプロジェクトマネジメントの教科書にでてくる成功ストーリーのようです(実際たくさん勉強しました)。
そのおかげで、その商品群はいつの間にかマーケットシェア&売上でナンバー1になり、並みいるライバルがどんどん売上を落としていくなかで、業界紙にインタビューされ、大きく取り上げられたりしました。
でもこれらはすべて、自分自身の人生の喜びを見失い、家族の体調悪化を見落とし、ただ数字を追いかけることだけにフォーカスして得た結果だったのです。
自分が「働く」理由は何か?
日本人にありがちな気がするのですが、「一生懸命働く」ことへの評価がとても高く、結果如何よりも、汗をかくことをよしとする価値感が広く共有されているようです。
・結果はコントロールできないけれど、常にベストを尽くすことはできるはず
・汗をかいた分だけ認められる
・何でも一生懸命にやる姿は美しい
・自分の一生懸命が仲間にも伝播する
・その結果、最高の結果がえられる
たぶん、ここにあげたことはすべて事実でしょう。
僕も実感しました!
でも、だからといって「自分がなにを一番大切にしているか」が分からなくなってしまっては、元も子もありません。
僕の場合、自分の人生の喜びがいつの間にか失われ、家族の体調がどんどんわるくなっていってもなす術もなく、毎日「ごめん……」と言いつつなかば見殺しにしてしまったのです。
もちろん、そのツケはとても大きなものでした。
幸い、この1年間で多少なりとも良くなってきた兆候はあるのですが、まだまだ完全とはいえませんし、今でも毎日の苦労はあります。でも、今の家族の在り方の方が、1年前よりも遥かに幸せだと実感しています。
自分自身が目標に設定したこと、あるいは生きる上での価値観を、いま一度疑ってみること。
これはなかなかできることではないでしょう。
なぜなら、その結果がどうなるかを想像することはむずかしく、身近にいる人に意見を求めても「いいんじゃないの」ぐらいの意見しかでてこないでしょうから。
おそらく、本当に人生経験が豊富で(つまりたくさんの失敗と成功を経験している)、人生を見通す力を得た人でないと、「いま一度疑う」ことはほとんど不可能かもしれません。
人は誰でも失敗からしか学べない、と言う意見もあります。
でも、もし「いま一度疑う」とか「本当の幸せがなにかを見通す」ことができるのであれば、僕のような失敗を経験することなく、自分と家族の幸せを選ぶことだってできると思うのです。
自分の人生の幸せを「定義」する
こんな人生の失敗を経験してから、僕は家族と一緒に「なにが幸せか」を良く話し合うようになりました。
今の僕たち家族の幸せの定義は、かなりはっきりしています。
・いつでも自由に話し合えること
・健康になる
・愛し合う
・衣食住に喜びと遊び心を
・一緒に遊ぶ
・お互いを尊重し合う
・好きな国に好きなだけ滞在できる自由を手に入れる
そして、これを実現するには「会社員ではダメだ」と言うことがはっきりしました。
もう会社は「卒業」したはずなのですが、今もって業務委託という契約で編集仕事をしている関係で、時間的な自由度がかなり犠牲になっています(金銭的には助かるとはいえ)。
と同時に、精神的にも独立独歩ではなく、相変わらず大きな木下で守られつつ、そのシステムの一部となる生き方を選んでもいます。実質的にはサラリーマンとあまり変わりがない、という訳です。
だから僕たちの幸せを実現するには、今、さらなる「次の一歩」が必要なタイミングを迎えています。
自分自身の「奴隷解放宣言」!
アメリカ南北戦争が終わって、リンカーン大統領によって「奴隷解放宣言」がなされた後の話です。すべての「元」奴隷が自由をすぐに選んだかというと、どうもそうではなかったようです。
自分自身で生きる力を失っていた「元」奴隷たちは、相も変わらず同じ生き方を選んだのだそうです。
つまり、主人の元で言われたことをただ淡々とこなし、少ない手当にも甘んじて生きる。与えられた衣食住環境に不平を言わずに、ただ感謝をするという生き方です。
おそらく、その次の世代にならないと、本当の意味での「奴隷解放」はなされなかったでしょうし、「元」奴隷たちが本当の社会的な自由を手に入れるには、長い闘いの歴史が続く訳ですが……この話、とても人ごとと思えないのは僕だけでしょうか?
サラリーマンを卒業して、いかに会社が社員を守っているかが良ーく分かりました。
サラリーマンであれば、保険や税金、社会保障はもとより、日々の交通費や諸経費について、ほとんど考えることはないでしょう。
でも同時に、自分がいくらの価値を社会に提供しているか、その何十分の一しか実際には受け取っていないかったかについても、良くわかっていました。
曲がりなりにもビジネスを(仲間に応援されながら)立ち上げて、直接お客さん(というか仲間)からお金をいただくことを続けているうちに、その喜びと大変さを同時に味わっている訳ですが、「全体を設計して回すこと」の楽しさと苦労は、サラリーマンでは味わえない類いの体験でした。そしてそれは、甘えが通用しない世界とも言えます。
自分の「甘さ」に気づき、誰もお尻を叩いてくれないこと(妻をのぞいて)、結果も喜びもすべて自分次第であることを、体験してみて始めて知りました。これは財産以外の何者でもありません。
そして、自分に誓ったのです。
もう自分自身をなにか自分以外の存在が作ったルールに縛りつけるのは止めよう!
誰か他の人や組織やらに人生の責任を取らせるのは止めよう。
自分の人生に起こることすべては自分が選んだ結果だと知ろう。
……だからといって、交通ルールを無視したり、税金を滞納しようと言うのではありません(笑
そういう小さな話ではなく、また他人の自由を侵害するような類いの「自由」を主張するのでもなく、これは「生き方」の話です。
自分で自分の人生のすべてに責任を持ちながら、
その「選択の自由」を常に自分の手のうちに持つこと。
つまり、目の前にあることすべては「自分の選択の結果である」と深いところで自覚することなのです。
(続く)
では、「幸せな人生を生きる5つのヒント」について、ひとつずつみていきましょう。
1. 他人の声など関係なく、自分の声に忠実に生きる
こう書くと、「そんな自己中心的な生き方して良いんですか?」という声が聞こえてきます。
つまり、ほかの人の声を聞くことならいざ知らず、自分の声を聞くことは「自己中」ではないか、というのです。
でも、それって本当に「自己中」でしょうか?
……
そもそも、「自己中」の人にはどんなイメージがあるでしょうか。
「自分勝手なことばかり言ったり、やったりしていて、ほかの人のことを省みない」
「場の空気を読まない」
「人の幸せより自分の幸せを優先している」
今の日本では、「そんなのありえない!」という声が聞こえてきそうです。
村八分になっちゃいそうです(笑
会社や学校で浮いてしまいそうです……。
でも、どうして自分の声を、心の叫び声を聞くことがいけないと感じてしまうのでしょうか?
それはきっと、「自分の声に忠実に生きる」=「いけないこと」という観念を持っているからです。
それも、非常に多くの人が、まだ小さいときから「勝手なことをやってはいけない」という考えを徹底して植え付けられているせいだと僕は考えています。
よくありがちな「観念」に気づく
たとえばこんな声をきいたことはないでしょうか?
・親に言われたことには素直に「はい」と答えなければならない
・授業中に勝手にトイレに行ってはいけない
・先生の話を聞くときは、勝手に発言してはいけない
・列を乱してはいけない
・上司の言うことは素直に実行しなければならない
もちろん、誰もが100%忠実に「他人の声」を守っている訳ではないでしょうし(笑)、教えを学ぶ者の態度を考えると、素直さもときには必要かもしれません。
でも、どこかでこんな声を聞いたときに、「やっぱりある程度ルールは必要だから」と自分で自分に言いきかせて、自分の心の声よりも「他人の声」「大人の声」「上の人の声」を優先してしまうような行動を、知らず知らずにとってしまう人は多いのではないでしょうか。
それは家庭だったり、学校教育の場だったり、あるいは会社組織内で求められていることなのかもしれません。
だってその方が、学校や会社、あるいは家庭の場で「上に立つ人」にとって便利で都合良く、管理しやすいというメリットがあるからです。
親の言うことを聞かない子よりも、親の言うことを聞く子の方が「いい子」と呼ばれることって、ありますよね?
あるいは、学校なら先生の言うことを、会社なら上司の言うことを「忠実に守る人」の方が管理が楽ですし、「上に立つ人が考える目標」に近づきやすいともいえます。
でも、今はもう組織の時代ではなく、個人の時代です。
組織(家庭、学校、会社)の幸せでなく、ひとりひとり(個人)の幸せにフォーカスした方が、これだけ価値観が多様になった時代に、幸せを感じる人は多いでしょう。そして、その方が「幸せの総量」は増えて、結果的に幸せな家庭や地域、国になるのではないでしょうか。
まして、猛烈なスピードで変化が訪れている「今」という時代に、上に立つ人、判断する人の価値観で生きているようでは、あっという間に時代に取り残されてしまうでしょう。
幸せそうに生きている人の共通点
幸せそうに生きている人に共通するのは、「いつも自分の声に忠実に生きている」ことだったりします。
そういう人は、一見わがままで、自分勝手に見えても、なぜか憎めなくて人間臭い魅力があります。
同時に、自分の人生で起こることすべてに責任を持つ覚悟があるのです。
だから、彼らの「生きる姿」はとてもかっこいい!
幸い、僕の身近にはたくさんの「自分の声に忠実に生きて、幸せに成功している人」が大勢います。
編集者でもある僕とお付き合いのある著名なカメラマンのほとんどすべてがそういう人ですし、有名な作家や大学の先生、あるいは著者となるような一流の実績を持つ人に、奔放でありながら、とても繊細な才能を持っていて、自由に自分を表現している人が多くいます。
もちろん、市井の人のなかにもそういう人を数多く見かけます。そういう人たちは皆、ある種独特の輝きを持っていて、知らず知らずのうちに声をかけていたりして、その魅力に少しでも接してみたくなる、そんな人たちです。
そういう人と接するたびに、「なんて気分良く生きている人なんだ!」と改めて感動してしまいます。好き嫌いがとてもはっきりしていて、人生に迷いがないのです。
だから、そんな人と仕事や遊びを通じて接するたびに、「もっと自分の心の声に耳を傾けよう!」と思うのです。
僕自身、まだまだ自分の声より他人の声を優先してしまいがちなこともありますが、これは訓練です。無意識に世間の声や評価を優先するのを止めるのは、実は結構むずかしいことだったりしますが、どんなに小さなことでも「自分の心の声」を聞くことを続けていると、だんだんとその声が大きくなってきます。
そして、その「小さな声=本当の自分の声」を無視することなく、大切に聞いてあげたいといつも思うのです(笑
親や上司、先生の立場
入社してしばらくすると、部下がついて上司になったりします。結婚して子どもが生まれると、誰でも親になります。何かを教える立場にいる人は、必然的に先生と呼ばれたりします。
そういう立場にいる人にとって、素直な人=いい人、と考える気持ちはとてもよく分かります。
僕は親の経験こそありませんが、上司や先生の立場に立つことは良くあることだからです。
それで、何かを教えたり伝えるときに、つい自分の価値判断や自分の経験値を混ぜてしまいがちだということに、あるとき気がつきました。例えばこんな感じです。
「ここはこうしましょう(その方がうまくいくから)」
「そっちじゃなくて、こっちでしょう(その方が良いと思うから)」
「これはダメだ(なんとなく直感的にそう感じるから)」
もちろん会社や家庭で、あるいは学校で、誰かがどこかで決断というか判断を迫られるケースはあります。そういうときには自分の経験と知識と知恵を総動員して、エイヤ!と決めるべきです。同時に、その決断が導いた結論や結果にすべて責任を取る覚悟をしているでしょう。
少し大げさかもしれませんが、道路の右に進むか左に進むか、あるいはまっすぐ行くのか戻るのか。そういうことにも決断や判断が伴います。
でも「個人の幸せ」ということを振り返ってみたときに、つい親や先生、上司は自分の価値判断の基準や、自分の人生経験を押し付けがちだったりしないでしょうか。
判断に迷う年頃ならいざ知らず、いや、まだ小さな子どもであったとしても、自分で判断する訓練を続けていかないと、良い年の大人になっても、いつまでも「決断=自分で自分のことに責任を取る」ことができない、なんて人になりかねません。
だから、大人と子ども、あるいは上司と部下、先生と生徒の関係であっても、一人一人の価値観や人生経験が違うこと、生きる時代が違っていることを意識して伝えていきたいものです。
そもそも、私とあなたが違う存在のように、あなたとあなたの身近な存在も、基本的は異なる価値観と人生を選ぶ権利があることを尊重してあげたいものです。
1. 他人の声など関係なく、自分の声に忠実に生きる
こう書くと、「そんな自己中心的な生き方して良いんですか?」という声が聞こえてきます。
つまり、ほかの人の声を聞くことならいざ知らず、自分の声を聞くことは「自己中」ではないか、というのです。
でも、それって本当に「自己中」でしょうか?
……
そもそも、「自己中」の人にはどんなイメージがあるでしょうか。
「自分勝手なことばかり言ったり、やったりしていて、ほかの人のことを省みない」
「場の空気を読まない」
「人の幸せより自分の幸せを優先している」
今の日本では、「そんなのありえない!」という声が聞こえてきそうです。
村八分になっちゃいそうです(笑
会社や学校で浮いてしまいそうです……。
でも、どうして自分の声を、心の叫び声を聞くことがいけないと感じてしまうのでしょうか?
それはきっと、「自分の声に忠実に生きる」=「いけないこと」という観念を持っているからです。
それも、非常に多くの人が、まだ小さいときから「勝手なことをやってはいけない」という考えを徹底して植え付けられているせいだと僕は考えています。
よくありがちな「観念」に気づく
たとえばこんな声をきいたことはないでしょうか?
・親に言われたことには素直に「はい」と答えなければならない
・授業中に勝手にトイレに行ってはいけない
・先生の話を聞くときは、勝手に発言してはいけない
・列を乱してはいけない
・上司の言うことは素直に実行しなければならない
もちろん、誰もが100%忠実に「他人の声」を守っている訳ではないでしょうし(笑)、教えを学ぶ者の態度を考えると、素直さもときには必要かもしれません。
でも、どこかでこんな声を聞いたときに、「やっぱりある程度ルールは必要だから」と自分で自分に言いきかせて、自分の心の声よりも「他人の声」「大人の声」「上の人の声」を優先してしまうような行動を、知らず知らずにとってしまう人は多いのではないでしょうか。
それは家庭だったり、学校教育の場だったり、あるいは会社組織内で求められていることなのかもしれません。
だってその方が、学校や会社、あるいは家庭の場で「上に立つ人」にとって便利で都合良く、管理しやすいというメリットがあるからです。
親の言うことを聞かない子よりも、親の言うことを聞く子の方が「いい子」と呼ばれることって、ありますよね?
あるいは、学校なら先生の言うことを、会社なら上司の言うことを「忠実に守る人」の方が管理が楽ですし、「上に立つ人が考える目標」に近づきやすいともいえます。
でも、今はもう組織の時代ではなく、個人の時代です。
組織(家庭、学校、会社)の幸せでなく、ひとりひとり(個人)の幸せにフォーカスした方が、これだけ価値観が多様になった時代に、幸せを感じる人は多いでしょう。そして、その方が「幸せの総量」は増えて、結果的に幸せな家庭や地域、国になるのではないでしょうか。
まして、猛烈なスピードで変化が訪れている「今」という時代に、上に立つ人、判断する人の価値観で生きているようでは、あっという間に時代に取り残されてしまうでしょう。
幸せそうに生きている人の共通点
幸せそうに生きている人に共通するのは、「いつも自分の声に忠実に生きている」ことだったりします。
そういう人は、一見わがままで、自分勝手に見えても、なぜか憎めなくて人間臭い魅力があります。
同時に、自分の人生で起こることすべてに責任を持つ覚悟があるのです。
だから、彼らの「生きる姿」はとてもかっこいい!
幸い、僕の身近にはたくさんの「自分の声に忠実に生きて、幸せに成功している人」が大勢います。
編集者でもある僕とお付き合いのある著名なカメラマンのほとんどすべてがそういう人ですし、有名な作家や大学の先生、あるいは著者となるような一流の実績を持つ人に、奔放でありながら、とても繊細な才能を持っていて、自由に自分を表現している人が多くいます。
もちろん、市井の人のなかにもそういう人を数多く見かけます。そういう人たちは皆、ある種独特の輝きを持っていて、知らず知らずのうちに声をかけていたりして、その魅力に少しでも接してみたくなる、そんな人たちです。
そういう人と接するたびに、「なんて気分良く生きている人なんだ!」と改めて感動してしまいます。好き嫌いがとてもはっきりしていて、人生に迷いがないのです。
だから、そんな人と仕事や遊びを通じて接するたびに、「もっと自分の心の声に耳を傾けよう!」と思うのです。
僕自身、まだまだ自分の声より他人の声を優先してしまいがちなこともありますが、これは訓練です。無意識に世間の声や評価を優先するのを止めるのは、実は結構むずかしいことだったりしますが、どんなに小さなことでも「自分の心の声」を聞くことを続けていると、だんだんとその声が大きくなってきます。
そして、その「小さな声=本当の自分の声」を無視することなく、大切に聞いてあげたいといつも思うのです(笑
親や上司、先生の立場
入社してしばらくすると、部下がついて上司になったりします。結婚して子どもが生まれると、誰でも親になります。何かを教える立場にいる人は、必然的に先生と呼ばれたりします。
そういう立場にいる人にとって、素直な人=いい人、と考える気持ちはとてもよく分かります。
僕は親の経験こそありませんが、上司や先生の立場に立つことは良くあることだからです。
それで、何かを教えたり伝えるときに、つい自分の価値判断や自分の経験値を混ぜてしまいがちだということに、あるとき気がつきました。例えばこんな感じです。
「ここはこうしましょう(その方がうまくいくから)」
「そっちじゃなくて、こっちでしょう(その方が良いと思うから)」
「これはダメだ(なんとなく直感的にそう感じるから)」
もちろん会社や家庭で、あるいは学校で、誰かがどこかで決断というか判断を迫られるケースはあります。そういうときには自分の経験と知識と知恵を総動員して、エイヤ!と決めるべきです。同時に、その決断が導いた結論や結果にすべて責任を取る覚悟をしているでしょう。
少し大げさかもしれませんが、道路の右に進むか左に進むか、あるいはまっすぐ行くのか戻るのか。そういうことにも決断や判断が伴います。
でも「個人の幸せ」ということを振り返ってみたときに、つい親や先生、上司は自分の価値判断の基準や、自分の人生経験を押し付けがちだったりしないでしょうか。
判断に迷う年頃ならいざ知らず、いや、まだ小さな子どもであったとしても、自分で判断する訓練を続けていかないと、良い年の大人になっても、いつまでも「決断=自分で自分のことに責任を取る」ことができない、なんて人になりかねません。
だから、大人と子ども、あるいは上司と部下、先生と生徒の関係であっても、一人一人の価値観や人生経験が違うこと、生きる時代が違っていることを意識して伝えていきたいものです。
そもそも、私とあなたが違う存在のように、あなたとあなたの身近な存在も、基本的は異なる価値観と人生を選ぶ権利があることを尊重してあげたいものです。