ヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。
アイヒマン・ショーです。
eichmann-show.jp
GWということもあって結構席が埋まってましたね。
ヒューマントラストシネマは都内の駅近の施設に入っているので、立地がすごくいいなといつも思います。
さて、自分はドイツに関連する映画やドキュメンタリーには昔から興味があり、特にナチス・ドイツに関連するものは、目に触れたものはできる限り見ています。
このブログを始める前にも、最近では同じくヒューマントラストシネマで「顔のないヒトラーたち 」や「パリよ、永遠に」を観ました。
本作はアドルフ・アイヒマンのイスラエルでの裁判の様子を放送するための撮影現場に密着したもの、という構成です。
この裁判が行われたのは今から50年以上も前の1961年ですから、当時まだ生まれていなかった私は、裁判の様子の詳細をこの映画を通じて初めて知ることができました。
撮影に携わった人たちが脅迫を受けたり、また、撮影に携わった人の中で収容所からの生還者が、裁判の証人の証言中に気分を悪くしたりと、当時の製作者の方達には様々な苦労があったことが分かりました。
ただ、私としてはアイヒマン(当時の記録映像の)が、終始どこか他人事のような表情を浮かべていたのがすごく印象的でした。
本作の中では、アイヒマンのこういった仕草や表情に基づいて、このようなどこにでいる普通の男であっても、モンスターになりうるのだ、という論調の脚本もありました。
アイヒマンが、「ユダヤ人問題の最終的解決」に大きく関わったことは事実だと思います。
ただ、私としては彼の表情や仕草は、「自分はただただ自分の任務を果たしただけである」という信念から滲み出たものにすぎないように思いました。
ここで、アイヒマン個人についてwikipediaで調べた程度ですが、少し書いてみたいと思います。
アイヒマンは青春期に国立実科学校を退学し、さらには工業専門学校も中退したようで、その経歴はお世辞にもエリートとは言えないと思います。親衛隊での階級も中佐止まりでした。
端的に言えば、小役人的な立場から脱することはできず、自身の身分を確保するためには上からの命令には絶対服従でなければならなかったはずです。
妻と幼い3人の子供もいたわけですから。
親衛隊の中佐であっても、おそらく家族は人質同然のような状態だったのではないでしょうか。
先に挙げた「パリよ、永遠に」では、パリ市防衛司令官のコルティッツ将軍でさえ、家族が人質のような状態で監視されていると言及されていました。
諸悪の根源であるヒトラーが勝手に自殺して責任を果たさなかった以上、世界は、特にユダヤ人社会は、ナチ狩りを通じてホロコーストの落とし前をつけさせようとしたことは良く理解できます。また、ホロコーストの全容を解明しようとしたことは、後世の私たちに様々な教訓をもたらしてくれました。そしてそういった活動が延々と受け継がれ、本作にも至ったのだということを感じ取ることもできました。
アドルフ・アイヒマンは結局絞首刑に処せられるわけですが、もし自分がアイヒマンの立場であったら、戦時中に自分はどういう行動を取っただろうか、また、戦時中に自分が正しいと思う行動(職務)を遂行したことで、戦後の裁判で死刑を宣告されたらどう感じるだろうか、そして、自分の人生はいったい何だったんだろうかと感じるのではないか、と様々な思いにかられました。
アイヒマン・ショーです。
eichmann-show.jp
GWということもあって結構席が埋まってましたね。
ヒューマントラストシネマは都内の駅近の施設に入っているので、立地がすごくいいなといつも思います。
さて、自分はドイツに関連する映画やドキュメンタリーには昔から興味があり、特にナチス・ドイツに関連するものは、目に触れたものはできる限り見ています。
このブログを始める前にも、最近では同じくヒューマントラストシネマで「顔のないヒトラーたち 」や「パリよ、永遠に」を観ました。
本作はアドルフ・アイヒマンのイスラエルでの裁判の様子を放送するための撮影現場に密着したもの、という構成です。
この裁判が行われたのは今から50年以上も前の1961年ですから、当時まだ生まれていなかった私は、裁判の様子の詳細をこの映画を通じて初めて知ることができました。
撮影に携わった人たちが脅迫を受けたり、また、撮影に携わった人の中で収容所からの生還者が、裁判の証人の証言中に気分を悪くしたりと、当時の製作者の方達には様々な苦労があったことが分かりました。
ただ、私としてはアイヒマン(当時の記録映像の)が、終始どこか他人事のような表情を浮かべていたのがすごく印象的でした。
本作の中では、アイヒマンのこういった仕草や表情に基づいて、このようなどこにでいる普通の男であっても、モンスターになりうるのだ、という論調の脚本もありました。
アイヒマンが、「ユダヤ人問題の最終的解決」に大きく関わったことは事実だと思います。
ただ、私としては彼の表情や仕草は、「自分はただただ自分の任務を果たしただけである」という信念から滲み出たものにすぎないように思いました。
ここで、アイヒマン個人についてwikipediaで調べた程度ですが、少し書いてみたいと思います。
アイヒマンは青春期に国立実科学校を退学し、さらには工業専門学校も中退したようで、その経歴はお世辞にもエリートとは言えないと思います。親衛隊での階級も中佐止まりでした。
端的に言えば、小役人的な立場から脱することはできず、自身の身分を確保するためには上からの命令には絶対服従でなければならなかったはずです。
妻と幼い3人の子供もいたわけですから。
親衛隊の中佐であっても、おそらく家族は人質同然のような状態だったのではないでしょうか。
先に挙げた「パリよ、永遠に」では、パリ市防衛司令官のコルティッツ将軍でさえ、家族が人質のような状態で監視されていると言及されていました。
諸悪の根源であるヒトラーが勝手に自殺して責任を果たさなかった以上、世界は、特にユダヤ人社会は、ナチ狩りを通じてホロコーストの落とし前をつけさせようとしたことは良く理解できます。また、ホロコーストの全容を解明しようとしたことは、後世の私たちに様々な教訓をもたらしてくれました。そしてそういった活動が延々と受け継がれ、本作にも至ったのだということを感じ取ることもできました。
アドルフ・アイヒマンは結局絞首刑に処せられるわけですが、もし自分がアイヒマンの立場であったら、戦時中に自分はどういう行動を取っただろうか、また、戦時中に自分が正しいと思う行動(職務)を遂行したことで、戦後の裁判で死刑を宣告されたらどう感じるだろうか、そして、自分の人生はいったい何だったんだろうかと感じるのではないか、と様々な思いにかられました。