日本の良さとは何だろう。

そんなことを考えていたら、昔とても心打たれた「エルトゥールル号事件」のことを思い出した。

紀伊半島沖で座礁し、587名もの犠牲者を出した130年ほど前の遭難事件です。

荒れ狂う海の中に投げ出され、おぼれるトルコの人たちを必死で近くの大島村の村民たちが救出します。

台風による不漁が続き、村民たちは食うや食わずの生活をしていましたが、そんなことはお構いなしに残り少ない食料を惜しげ無く提供し、手厚い看護を施すことで生存者の方たちは元気を取り戻していきました。

 

トルコの方々は大変感謝し、帰国後このことを広く同胞に伝えていきますと言って帰られました。

 

そんな事件から95年後、イランイラク戦争の真っただ中、サダムフセインが「今から48時間後イラン上空を通過するすべての航空機を攻撃する」という突然の声明を発表。

日本の飛行機はイランへの乗り入れもなく、また自衛隊も法律に縛られ動けません。

万策つき218名の日本人がイランに取り残されてしまうという絶体絶命の状況に立ち上がってくれたのが、トルコだったのです。

 

その理由はエルトゥールル号の借りを返したいという思いだったのです。

当然イランにはトルコ人も多数いましたが、その方たちは危険な陸路を使ってでも日本人を救出してくれたのです。

 

その後も日本とトルコの親密さは続いています。

またトルコの大震災時には日本人の援助が、阪神大震災などの時にはトルコの援助がと、お互いの困ったときに助け合っていく姿がそれを表しています。

 

これは大島村の人たちの見返りを期待しない無償無私の精神が、結果として無償無私の精神として帰ってきた美しい物語だと思います。

 

現代は個人利己主義が当たり前になり、誰もが自分のことばかりを優先してしまうように見えます。

この利己主義は日本人の本来性とはずいぶん違うものでしょう。

和の心、大和魂など私たちが本来持っている良さであり、根本的な力が発揮されていない現代、私たちがもう一度日本の良さに立ち返り、その在り方から関係性を再構築できたとき、世界は日本に希望と感動を見出すのではないでしょうか。

 

日本の持つ美しさ、日本の持つすばらしさを発揮することが今最も必要とされていることだと思います。

そんな日本のポテンシャルを発揮する道具としてnTechが活躍できる確信が深まります。

先日、午前中を使って掃除をしてみた。

部屋全体と水回りをすべてやるとそれなりの大仕事である。

 

もともと私は関連会社でお掃除の仕事を3年ほど専門的にしていた時期がある。

掃除とは汚れを落としたり、ごみやほこりをきれいにすることだと思われているが、実はちょっと違う。

私たちが掃除するごみや汚れは初めからそこにあっただろうか。

 

汚れを落とすのではなく、元の状態に戻すことが掃除の本質なのです。

元の状態、すなわちオリジナルに戻してあげること。

この本質を理解すると、掃除をすることの意味が深まります。

 

よく成功している経営者の方は掃除をしているといいます。

それもお手洗いの。

それはただ形上の掃除をすることに意味があるのではなく、その行動にどのような意味を見出して行っているかが重要なのです。

 

お掃除で落とす汚れとは、私たちの心にある様々な執着のこと。

怒り、恨み、決めつけ、嫉妬などを生みだすものでもあります。

汚れの無いところから汚れが生まれたように、私たちの様々な感情も実はそれらが無いところから生まれています。

 

お掃除をすることは、汚れを落としながら、自身の心をすっきりとフラットな状態に戻すことでもあるのです。

 

以前お掃除の仕事をしているとき、自分がなかなか超えられない感情と今落とそうとしている汚れをオーバーラップさせているときなど、なかなか汚れが落ちなくて困ったものです。

しかし自身の怒りの原因がこの執着からきているのか!と気づいたときに汚れが取れたりと不思議なこともよくありました。

 

そんなお掃除をたまにしてみると、普段味わえない気づきと出会えるかもしれません。

最近の若い者は・・・という言葉は大昔から有ったそうだ。

ギリシャ時代にも言われていたらしい。

それを聞いたときにどのようなメカニズムが働いているのかを考えてみたくなった。

大人が若者を否定するのは、実は新しい価値観によって自分たちの今までの価値を否定される恐れからくるものであると思う。

自分たちの既存の価値を否定されるということを、自分を否定されることと同じ事ととらえてしまうため、それを阻止し自分たちの価値観を正当化し守るために、新しい価値観を否定し排除する必要があるからだ。

しかし誤解しないでもらいたいのは、新しいものが正しいということではないということ。

 

今からは特に価値観の多様化は顕著になっていく。その多様化は個性を尊重するという意味では歓迎されるものであるが、価値の多様化の進行は社会の無秩序化を誘発するものとみることもできる。

なぜならば先ほどの若者否定と同じメカニズムで、違う価値観を否定することで自分たちの価値を守ろうとする動きが必ず生まれるからだ。

その顕著な例は、お互いに平和な世界を創ろうとしながら戦争を繰り返している宗教や民族の歴史をみれば証明されているといっても過言ではないだろう。

 

私たちが本当に価値観の多様化を生かし認め合うためには、“違いの無い共通”という土台を持つことであると思う。

すべての違いをALL-ZEROにしたところから、違いの生まれるメカニズムを理解することでお互いの違い・個性を本当の意味で認め合うことができるのではないだろうか。