※ 御由緒 : 安倍文殊院は日本三大文殊の第一霊場(京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)「大和安倍の文殊さん」として名高い。
大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(崇敬寺すうけいじ)
(645)安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西300メートルの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていた。
(1563)二月松永弾正の為に兵火に会い一山ほとんど鳥有に帰する災を受け、その後(1665)本堂(文殊堂)と礼堂を再建されたのである。
集合して向かったのは土舞台です。
聖徳太子指示のもと中国などの舞(猿楽,田楽,歌舞伎)を日本の男子のみに伝授し、各地に派遣していった場所であった。
(日本発のJ事務所!?)
こちらでは東大寺の重源(ちょうげん)と信仰心厚い仏師快慶のお話を聞きました。
本日は、安倍文殊院の文殊お会式でした。
ご本尊文殊菩薩を奉賛する年に最大の法要のようです。
(4月29日~5月5日には秘仏十二天特別御開帳。)
夕方より知恵の餅まきがあったようでした。(参加できず ←餅好き )
ご住職のお話を楽しく伺いながらお茶を頂きました。
(赤い護符のお話し、檀家を持たないお葬式のないお寺)
本堂に移動して文殊菩薩様に逢いにいきました。 で見るよりやはり実物は美しいです
惚れ惚れする程のイケメン文殊様です。
快慶は女性らしい文殊菩薩様にされたようです。ふくよかなほっぺ、目の開き方、ウエストのくびれ、左足の衣の襞のドレープ
(男性的な仏像とは全く違い色っぽい像です。)
善財童子像(ぜんざいどうじぞう)
優填王像(うてんおうぞう) ⇨ ☆
須菩提(しゅぼだい)
後に外道から非難や中傷・迫害を受けても決して言い争うことなく円満柔和を心がけたといわれ、このため弟子中で無諍第一①といわれ、また多くの人々から尊敬せられ限りなく供養を受けたので被供養第一ともいわれている。
彼は解空第一とも言われ(解空 とは空を良く理解していること。「色即是空、空即是色」の空。物事にとらわれない執着しないという教えです。実体が無いことです。)
①無諍(むそう)とは言い争いをしないこと。須菩提は元は短気で粗暴な性格でしたが、お釈迦様に出会い円満な人格となり在家の人々からも慕われていました。
初期の般若経典において、経典の進行を導く重大な役割を果たしている。
維摩居士像( 最下勝老人)
※彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、弥勒や大乗の菩薩たちも彼に問答でやり込められた経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。
そのときの問答は有名で、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純(一休さん)などはその典型的な例であると考えられる。
他にこちらの釈迦三尊前で印相(印とは手の形)のお話し(釈迦の五印)少し変わっているようです。
沢山の仏像の中地蔵菩薩が気になりました。
終わりにポンポンしてもらいました
(本堂正面で僧侶から知恵授与のお加持祈祷を受けます。)
先に文音さんとお逢いしてを教えて頂きましたが、まさかの迷わず辿り着き、敷地内のがすぐに満車になってました。
ありがとうございます
その後はまた次に