六甲山について

  • 古くから戦いや復興の為に森林伐採が行われて荒廃、土砂災害が頻発していた 
  • 江戸時代、一帯はハゲ山になっていた 
  • 明治に入り水害が多発、砂防法・森林法を制定 
  • 1902年に貯水池上流の再度山・修法ヶ原 で植栽が始まりハゲ山の緑化が進む

 

再度山(ふたたびさん) 

六甲山系西部の再度山。その山頂北の再度公園内「修法ヶ原池(しおがはらいけ)」の近くに外国人墓地がある 

  • 面積約14ha = 甲子園球場の約3.5倍! 
  • 埋葬者の多い国籍;イギリス、アメリカ、ドイツ、ロシアの順(5カ国で条約を結んだため) 
 
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歴史 

  • 1867年(慶応3)「外国人居留地を定むる取極」が結ばれた 
  • 同年12月、生田川尻の小野浜で最初の埋葬 
  • 1868年(明治元年)兵庫開港、外国人居留地を設ける 
  • 1961年 再度公園内に小野浜・春日野、両墓地の移転統合が完了

 

外国人居留地の区画

東は旧生田川(現フラワーロード)だったが、天井川でよく氾濫するため居留地への大被害も予想された 


加納宗七が現在の位置に生田川の付け替え工事をし、1871年に完了(=加納町の由来) 
同様に旧湊川も1901年に付け替え工事された

 

北野異人館と中華街・南京町

1868年開港当時、まだ居留地は整備されていなかった 


そこで宇治川と生田川の間を「雑居地」と定めて住むことを認めた(居留地の整備後も撤去せずに存続) 


※清国人は当時条約を結んでいなかったので雑居地に居住

 


 

◆ 神戸市立外国人墓地の見学 ◆ 

  • 2006年から条件付きで見学可能になった (事前申込み制/案内人同行/撮影は2箇所のみ許可など)
  • お墓は宗教別に区分されている (プロテスタント、カトリック、ロシア正教、ゾロアスター教、イスラム教、ユダヤ教) 
 
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敷地が広大なので案内・説明されるお墓は限定的🐾

 

 


 

芝生墓地(撮影可)

160基程の訪れる身寄りのない人の墓地 


ここにイギリスの博物学者、リチャード・ゴードン・スミス氏(1858ー1918)のお墓がある

  • 1898年に大英博物館からの依頼で生物標本の採取のために来日 
  • 1904年に六甲山で新種のネズミを捕獲
 
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リチャード・ゴードン・スミス氏はアジア各地を旅行したが、その間に書かれた日記は後に孫に発見され、日本に関しては「ゴードン・スミスのニッポン仰天日記」として出版されている 

 

民話や神話、大英博物館に送る動植物、魚… 明治時代の写真や絵付きで面白そうなので、中古本を購入した📖

 

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小野浜地区(撮影可)

【アメリカ艦隊遭難記念碑 】

  • 1686年(明治元年;開港から10日後の夜)、大阪湾でボートが転覆して士官・水兵合わせて12名が死亡した 
  • 少佐・少尉の遺体は本国に送られ、残る水兵の犠牲者10人が小野浜墓地に埋葬された

開港前の埋葬者もここに眠っている 
円柱が折れた形の墓石は「志半ばで命を落とした」ことを表している

 

 

【堺事件の犠牲者(青年11名)の慰霊碑とお墓】 

1868年(明治元年)、堺港で起きた土佐藩士によるフランス帝国水兵の殺傷事件 

  • 事後処理:仏側は明治政府に賠償金と発砲者の処刑を要求し、20名の処刑が決定(うち16名はくじ引き) そして...
  • 堺の妙国寺で刑の執行=切腹😰 
  • フランス側はあまりにも凄惨な様子に恐れ慄き、11名の切腹が終わった所で中止(残る9名は島流し) 
 

 


【宗教別・墓石の特徴など

✡️ユダヤ教徒のお墓✡️  

 

墓石に「ダビデの星」が刻まれている 
土葬である
・2mの深さに穴を掘り、包帯で巻いた遺体を納め、土をかぶせて埋める 
・場所がわかるように盛り土をする
・2年ほどして地盤が安定してからお墓を立てる 

 

 

☪️イスラム教徒のお墓☪️ 

 

墓石に月と星のシンボルが刻まれている (土葬) 

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✝️カトリック教徒のお墓✝️ 

 

R. I. P.と刻まれているものがあり、ラテン語でrequiescat in pace、英語でrest in peaceの意味(安らかにお眠りください) 

 

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◆ ゾロアスター教徒のお墓◆  

 

聖火のシンボル 紀元前6世紀頃、ペルシアの預言者ゾロアスターを開祖とする宗教 


祭壇の聖火を善なる神の象徴とするので拝火教と呼ばれる 
最高神=Ahura Mazdā  

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◆ フリーメイソン会員のお墓◆ 

 

シンボルマーク「コンパスと直角定規」が刻まれたお墓をいくつか目にした
 
その後の説明によると「宗教に関係なくフリーメイソン会員のお墓が敷地内に50基程ある」とのこと 
やはり開国と関わりが深いのだろう(ペリーもそうだし...) 

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 ◆ ロシア正教徒のお墓◆

 

普通の十字架ではなく、八端十字架☦️ eight-pointed cross 

上部の横棒は罪状書きの札を表し、下部の斜めになった横棒は足台を表している

 

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【神戸のパン・洋菓子文化を支えた方達のお墓】

ハインリヒ・フロインドリーブ氏(1884-1955)

ドイツのパン職人 
第一次世界大戦時に日本の捕虜となる

解放後は日本で敷島製パン初代技師長に就任、日本人と結婚 
1924年 フロインドリーブを開店

 

フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ氏(1880-1971)

ロシア革命を逃れ、1917年ハルビンへ

→1923年シアトルへ→1924年日本の神戸に移住 
1926年、トアロードに洋菓子店を開店 

1931年、㈱モロゾフを設立

 

ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ氏(1911-1999)

(上記フョードルさんの息子) 

菓子職人として店を手伝い、独学で菓子の製法を研究 
1945年 終戦直後に菓子店コスモポリタンを開店 

(彼の死後に経営が長男に引き継がれたが2006年に自主廃業)

 


 

展望台にある 勇士の慰霊塔】 

第一次世界大戦時、連合兵士として阪神間から欧州戦線へ出征して戦死したイギリス人・フランス人19名の青年の慰霊碑 

 

台座の右側に兵士の名前が刻まれている 


※展望台は朝9時から自由に入れ、広大な墓地を見下ろすことができる

 

 

慰霊塔

 

 

展望台からの見晴らし