昭和45年6月15日
全学ストに突入。下宿の連中は皆帰省したようだ。私も、帰ろう。
昭和31年11月3日 くもり (小学2年生)
今日は文化の日です。ぼく(僕)と(は)お父さんとこっき(国旗)を立てました。
どこのおうちもこっき(国旗)を立てていました。ほんとうにきもち(気持ち)のよい朝でした。
昭和58年10月10日(月)
『ベニーグッドマン物語』のラストシーンを観て・・・。
どうして昔のアメリカ映画って、あんなにもラストシーンが素敵なんだろう。
・・・でも、あのスター達の背後で、どれだけ多くのスターの卵達が夢に押しつぶされていったのだろう・・・。
昭和33年12月28日(日)
朝からみんなで(皆で)大そうじ(大掃除)をしました。とちゅう(途中)からお母さんと買い物に行きました。持物(荷物)が多くてこまり(困り)ました。
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<昭和の恋の物語>
『彼女の日記帳』 ~作・欧変利
「行ってきまーす」
牛乳を飲み干すと、高二の娘は制服の裾を翻して軽やかに部屋を出て行った。
「お父さん、食べてよ」
娘の食べ残したハムエッグを、妻が勧める。
見れば、卵の黄身の部分だけを食べ、白身もハムも箸を付けていない。トーストはといえば、真ん中の部分だけを食べ散らかせている。
「最近家を出るのが早いんじゃないか」
腕時計に目を落とし、妻に問いかけた。
「ボーイフレンドでしょ」
妻は涼し気に言う。
「ボーイフレンド?」
「同じ学校の子よ」
妻はどうやら知っているらしい。
「待ち合わせて、一緒に学校に行くんじゃないの」
なるほど、朝のデートという訳か。そういう経験がなかった自分には、時代の違いを感じずにはいられない。
「帰りはどうなんだ」
「帰りって?」
「夜遅くなったりしないのか」
「あら心配してるの」
「当たり前だ」
「あの子は大丈夫。ちゃんと夕食迄には帰ってくるから」
ふと、駅のホームなどでいちゃついている高校生らしきカップルを思い浮かべた。見ていて、決して感じのいいものではない。若者の持つ爽やかさが全く感じられない。自分の娘に限ってそんなことはないだろうと思う。だが、(うちの子に限って)というのは、問題を起こした子の親が言う決まり台詞だ。
そんな心配をさっしたのか、
「きちんとしたいい子よ」
妻が太鼓判を押す。
「会ったこと、あるのか」
「一度学校帰りにうちへ寄ったことがあるの」
知らぬは父親だけだ。
娘の食べ散らかした朝食をたいらげ、家を出た。駅へと続くいつもの道を歩いていく。娘のことが頭から離れない。別にボーイフレンドが心配という訳ではない。同じ学校の子だから、少なくとも非行少年ではない。今時珍しいくらい服装や生活態度にも厳格な指導方針を持つ学校だ。ただ、娘のボーイフレンドの話に、ふとある事を思い出したのだ。---もう何十年も前のことだ。高校を卒業して既に三十数年になる。想い出は、それより以前のことだ。(つづく)
ーーー中学生の頃、自分は遅刻常習者だった。朝が苦手だった。家を飛び出し、走っていく。中学では時々遅刻検査があった。遅刻すると、校長室の前に正座させられた。家を出る頃には、通学路に生徒の姿はない。とっくに学校に向かっているからだ。その道をある時は小走りに、またある時は全力疾走で、少しゆとりのある時は急ぎ足で通った。 いつの頃からだろう、逆方向へ通学する女子高生と、毎朝のように擦れ違った。彼女の姿は、今でもはっきりと思い出せた。何故かといえば、彼女の顔が美しかったから。気品ある顔立ちだった。ブラウスも制服もまるで下し立てのようだった。おそらく、ブラウスは毎日着替え、制服も三着くらいもっているのではないだろうか。擦れ違いながら、そんな事を思った。私などは春夏秋冬これ一着。夏はたっぷり汗が浸み込んでいた。何しろ、暑くても走らねばならなかったから。
そして、もう一つ。こちらの印象の方が遥かに強烈なのだがーーー。彼女は足が悪かった。交通事故なのか病気なのか、左脚を引きずっていた。彼女の存在を最初に意識したのは、その歩く姿にだった。次に制服だ。何時も清潔感が漂っていた。その次が顔だった。美しい少女が足を引きずりながら歩く姿は、強烈に心に引っかかった。
更に興味を引いたのが、妙な光景だった。彼女の周りには、いつも数人の小学生がいた。高校と小学校とは、同じ方向だった。つい二、三年前迄自分も通った小学校である。子供達は、彼女にとても懐いていた。ちょっとした『白雪姫と七人の小人』だ。何度か擦れ違ううちに、何だか緊張感のようなものを感じるようになってきた。彼女は子供達と談笑しながらゆっくりとあるいていく。こちらは遅刻という問題を抱えている。そのうち、ふと思った。彼女は遅刻しないのだろうか。他人の遅刻を心配するゆとりなどない筈なのに、小走りで彼女と擦れ違いながら、気掛かりだった。しばらくして振り返ると、相変わらず子供達と談笑しながらのんびりと歩いている。
擦れ違った後、時折小学生の姿を目にするが、高校生とは一人も出会わなかった。やっと高校生の姿が見えてきたのは、橋が見えてきた時だ。そういえば、高校生は橋を渡らず、路線バスの走る通りを歩いている。この町は四方を小高い山に囲まれており、その中央を川が流れている。川を挟んで二本の道路があった。高校生達は皆バス通りの方を歩いているのだ。
後にこの高校に進学して知ったのだが、彼女が歩いていた通りは通学路として禁止されていた。なんでも、他校の不良が待ち伏せをして、喧嘩になったことがあると聞いた。確かにバス通りに比べれば人通りは少ない。途中神社がある。神主がいる訳でもない。誰もいない小さな神社だ。神社の周りは木々が鬱蒼と生い茂っている。恐喝などのシチュエーションにはぴったりということになる。高校入学時、教師から通学路としないよう注意を受けた時、彼女のことが思い出された。
(もう卒業したのだろうかーーー)
彼女と擦れ違うのを意識し始めた時を思い出してみた。中学二年の時だ。あの時彼女が高校一年生だとしたら、私が高校進学する時には三年生ということになる。もし彼女が二年生以上だったら、もういない。
私の遅刻癖は、一時期収まることになる。何故収まったのかーーー。中学三年のある時から誰よりも早く登校するようになる。大いなる変身だった。毎朝早起きし、静かに卓袱台に向かう。毎朝何度も起こさなければならなかった母は、ちゃんと早起きして朝食を摂るようになった息子を前に、満足気だった。高校受験に向け、心を入れ替えたとでも思ったのだろう。
早起きするようになった理由は、人を好きになったからだ。少女は早起きだった。誰よりも早く登校することを知った。だから、この時期は高校生の彼女と擦れ違うこともなかった。第一、少女の通学路であるバス通りの方を利用したので、会う筈もなかった。少女の事が頭の中を占拠したため、次第に彼女の事を意識しなくなっていった。(つづく)
私は中学を卒業した。進学した高校は、文字通り目と鼻の先にあった。朝のチャイムが聞こえてくるのだ。それを聞きながら学校へと走った。ひどい時はチャイムの音を自宅で聞いたこともある。
母は再び、世話の焼ける息子を何度も起こさなければならなくなった。チャイム音が「早く来いよ」と呼んでいるように聞こえたものだ。
入学して間もない頃だった。土曜日の放課後、初めて図書館へ行ってみた。幼い頃から建物の周りを走り回ったものだが、中へ入った事は勿論ない。図書館は、校舎から離れた所に独立して建っていた。建物は校舎に比べると新しい。図書館も戦前からあったが、十数年前に焼失している。何しろ家が高校のすぐ傍だから、火事の時は近所の人が夜中に家族を叩き起こしたらしい。私は三歳位だから、記憶にない。今で言うホームレスが図書館に侵入し、暖を取る為に焚火をしたそうだ。それが火災の原因だった。
昭和二十年代半ば、まだまだ戦争の傷が癒えない人も少なくなかった筈だ。家族を亡くし、家を無くし、働く気力も萎えていた人達ーーー。そんな中年男の一人が、火災の原因をつくってしまった。
焼け跡に三輪車で乗り付けた事だけは覚えている。年の離れた兄が、散歩のついでに連れていってくれたのだ。あの時の焦げ臭い臭いを思い出してしまった。
誰もいない図書館裏に行って、腰を下ろした。目の前は川だ。川を挟んで、バス通りが見える。バス通りからはすぐに山だ。いや、正確に言えば、山というより丘だ。海抜六百数十メートル程の山の裾野辺りになる。急斜面に木々が生い茂っている。小学時代の友人の家も見えた。
ぼんやりと小学生の頃を回想していた。小学校を卒業すると、皆そのまま地元の中学へ通う。そして、クラスは別々になる。学年が変わる毎にクラス替えが行われ、再び同じクラスになる事もあった。中学を卒業すると、各々の進路に向って別れていった。同じ高校に進学して、今も付き合っている友人もいる。が、多くは分かれていった。もしかすると、多くの級友とは同窓会でもなければ二度と会うことはないのかもしれない。
そんな事を思っていると、誰かが図書館の窓を開けた。回想を中断されて、窓の方へ視線をやる。
そして、はっとした。
「あら、ここに入学したの」
彼女、だった。中学の登校時にいつも擦れ違っていた、あの彼女だった。まだ、卒業していなかった。
「はい」
突然目の前に現れた驚きに、思わず立ち上がった。そして小さな声で、ただ頷くだけだった。
「君、名前は?」
問われるままに「勝田です」と、答えた。
「勝田君ーーー。下の名前は?」
「義信です」
「義信君ーーー」
彼女は窓辺に肱を付き、頷きながら微笑んだ。
「どんな字を書くの?」
彼女に問われるまま、説明しなければならなかった。」
まるで女教師に説明を求められた小学生のようだ。
春風が吹いて、彼女の髪を揺らした。まるでルノアールの描く少女のように、美しく輝いている。絵画を観ているような錯覚すら覚えた。この姿を見れば、誰もが神に祝福された乙女だと思うだろう。だが、彼女の右足は壁に隠れて見えない。その事実が頭をよぎった。
彼女は自分の事を覚えていた。もっとも、誰も通学していない朝の道を一人遅れて急いでいる中学生は、目立ったのだろう。お互い意識するようになって、ある朝彼女が「おはよう」と挨拶してきた。つられて、こちらも頭を下げる。それだけの事が、毎朝続いていたのだった。
「じゃあ、また」
そう言って、彼女の姿は窓の中へ消えた。
何が「じゃあ、また」なのか分からなかったが、緊張感は体から中々抜けなかった。(つづく)
もう一度腰を下ろしたが、中断された回想を続けることは出来なかった。
あの感覚が甦ってくる。
いわゆる五体満足である自分。足を引きずって歩かなければならない彼女。五体満足であることが、なんだか気が引けて仕方なかった。五体満足ーーーこの言葉に引っかかった。五体満足とは一体何なんだろう。彼女は五体満足ではない。多くの大人達は五体満足であることを喜ぶ。となると五体満足でないことは憐れみの、あるいは蔑みの対象とならなければならないのだろうか。彼女の存在が、私に五体満足について考えさせてくれた。振り返ってみれば、その後の人生に大きな影響を与えてくれたのだった。
どんなに遅刻しそうで走っていても、彼女と擦れ違う時間が近付くと、走るのを止めた。彼女を傷付けることになりそうで、怖かった。と同時に、彼女の前で走ることが、罪悪のように思えたのだ。擦れ違った後、様々なことを考えるようになる。運動会は嫌なんだろうなーーー。もしかすると、遠足だって嫌なのかもしれない。みんなと並んで歩くことが苦痛ということだって有り得るーーー。結婚出来ない、なんて思っているんじゃないだろうかーーー。胸の内を打ち明ける友人がいないかもしれないーーー。
あの足を治せないのだろうかーーー。勝手な思いが頭をよぎった。
しかし、そんな思いも長くは続かない。学校へ行けば授業もある。クラスメイトとお喋りもする。学校が終われば遊んだり、宿題をしたりと、自分の生活が待っている。要するに、彼女に恋をした訳ではなかった。第一、彼女の顔をまともに見たことがなかった。が、ちらりと見た印象はーーー端正な顔立ちで美しかったようなきがする。美しいだけでなく、小学生達と談笑しながら登校する姿は、優しさに満ち溢れていた。まるで宗教画に描かれた嫋やかな聖女のような感じすらした。ーーー世俗的な感情が、彼女に対して抱けなかったのかもしれない。
その彼女と再会した。
(まだあの道を、小学生と一緒に歩いているのだろうか)
対岸のバス通りをぼんやりと見ながら、毎朝擦れ違っていた頃のことが思い出された。
あの通学路を走っていたのは朝だけではなかった。帰りも走っていた。テレビを観るためだ。三時過ぎから始まるテレビ名画座という番組に夢中だった。月曜日から金曜日迄毎日放送されていた。多くはフランス映画やイタリア映画など、ヨーロッパの作品だった。それまで洋画といえばアメリカ映画しか知らなかっただけに、カルチャーショックを受けたものだ。
小学生の頃、我が家に初めてテレビがやってきて以来、アメリカ製のテレビドラマに慣れ親しんできた。明るく豊かで開放感溢れるアメリカ製ホームドラマに釘付けになった。ブラウン管の向こうに、夢が広がっていた。人種差別などアメリカの影の部分を知る由もなかった。アメリカが抱える苦悩など、ブラウン管にもスクリーンにも微塵もなかった。豊かで明るいアメリカに夢をみていた。
ところがヨーロッパ映画にはアメリカ映画にないものが感じられた。ハッピーエンドの作品など、ほとんどない。観ていて重苦しい気分になったりもした。観終わってからも、考えさせられてしまう。なのに、一旦観始めると途中で辞めることが事が出来なかった。(つづく)
四月の下旬、ゴールデンウィークが間近に迫った頃だ。その日は部活もなく、放課後の教室で親友とゴールデンウィークをどう過ごすか相談していた。
「キャンプにでも行くか」
親友の提案に、諸手を挙げて賛成する。
B予定が決まったところで、二人は教室を出た。廊下を歩いていると、音楽教室からピアノの旋律が流れてきた。フォスターの『夢見る君(Beautiful Dreamer)』だった。フォスターは、好きな作曲家の一人だった。一八二六年に生まれて、一八六四年にこの世を去っている。三八年の短い生涯の最後に作曲したのが『夢見る君』だった。フォスターをアメリカのモーツァルトと評価する人もいる。
音楽教室に向って歩いていたから、ピアノの音は次第に大きく聞こえてくる。誰もいない放課後の校舎に『夢見る君』が甘く切なく響いた。
「きっと美人に違いない」
親友は、そう決め付けた。もしかすると男が弾いているのかもしれないのだが、友人は嫋やかな女性の指が奏でていると信じて疑わなかった。下へと向かう階段を通り過ぎて、音楽教室へと向かう。
そっと窓ガラス越しに中を覗いた。
「やっぱり美人だ」
親友が小声で吐き出した。
あっ、と思わず声を出してしまいそうになる。
やや斜め後ろから見たその横顔は、彼女だった。彼女が『夢見る君』を弾いていた。
自分の体が固くなるのを感じた。
親友は、その旋律よりも彼女の横顔にうっとりとしているようだ。
「行こう」
親友を促して、その場を離れた。親友は仕方なくといった感じで付いてきた。
「一年生かな」
彼はそう言って、音楽教室の方をもう一度振り返った。かれの質問には答えず、階段を下りていく。その背中に、彼女の弾く『夢見る君』が響いた。
俺達の中学にはいなかったな」
友人が問いかけてきた、
「うん?」
よく聞こえなかったふりをする。残り四、五段の階段をジャンプして飛び降りた。
「知ってる子か?」
同じように飛び降りた友人が顔を覗き込んできた。小学校以来の友人は、いつもと違う微妙な変化を感じ取っていた。
「誰?」
「誰って、ピアノ弾いてた子」
「知らん」
バスケットボールのシュートの格好でジャンプしながら、そう答えた。友人はそれ以上聞いてこなかった。
校舎を出ると、『夢見る君』がそよ風に乗って流れてくる。親友の言葉に耳を傾けながらも、神経はピアノの旋律を追っていた。
やがて甘味なメロディーは風にかき消され、学校の横門を出る頃には町のノイズしか聞こえなくなっていた。駆け抜けていく小学生の男の子達。ほんの数年前の自分達の姿がそこにはあった。
親友と別れ、家路を辿る。家へと続く石段を上りながら、いつしか『夢見る君』を口ずさんでいた。長い石段の途中で立ち止まり、眼下に広がる校舎を眺めた。あの音楽教室で、彼女は一人ピアノに向かっている。
友達はいないのだろうかーーー。
それとも、作りたくないのだろうかーーー。
かつて通学路で擦れ違った時のように、様々な思いが頭の中をよぎった。
再び石段を上りながら、西の空を見る。故郷の山に夕陽が傾いていた。子供の頃から夕暮れ時になると、あの山を見た。明日の天気が分かるのだ。
夜、湯船に浸かっている時、無意識に内に『夢見る君』を口ずさんでいた。当然のことのように、彼女の事が思い出された。ピアノに向かっている姿が甦ってくる。ザブッと顔を洗い、他の歌を探した。湯船の泡のようにプカリと浮かんできたのは、坂本九の『明日があるさ』だった。
♪いつもの駅でいつも会う、セーラー服のお下げ髪~
軽快なリズムに乗って歌い始めたものの、すぐに辞めた。彼女と擦れ違っていた通学路の光景が浮かんできたのだ。歌が通学路の日々を思い出せてしまった。
もう一度勢いよく顔を洗った。が、歌う気にはなれなかった。何故他の歌を探したのか、その理由が分かっているからだ。彼女を思い出せば、嫌でも彼女の足の事を思い出してしまう。必要以上に足の事を気遣ってしまう自分が、何だか嫌だった。もし、自分の足が彼女のような状態だったらーーー。憐れみをもって見られる事に耐えられないのかもしれない。放っておいてくれ、そう言いたくなるのかもしれない。(つづく)
我々は団塊の世代と呼ばれている。同世代の中には、東京オリンピックが戦後日本の分岐点だとみる人が少なくない。会社の同僚、木村女史もその一人だ。東京は下町生まれの快活な女史は「東京オリンピック以前は銀座もね」などと、昔話の折々に東京オリンピックを一つのエポックとして会話に取り入れた。一九六四年、昭和三九年の十月十日、第二次大戦後一九年目の日本でオリンピックが開催された。太平洋戦争下、東京大空襲で一面焼け野原となったーーー。それから僅か十九年でーーー。敗戦国日本が復興を遂げた象徴的出来事だった。
入学したばかりの我が高等学校でも、剣道部と柔道部が使用する武道場にテレビが設置された。休み時間に、生徒達はテレビの前に集まった。水泳も陸上も、アメリカが圧倒的に強かった。ドン・ショランダーの泳ぎに溜息を吐き、男子陸上百メートルの金メダリスト、ボブ・ヘイズの力強い走りに圧倒された。四百メートルリレーでアンカーを彼は、バトンを受けた時は五、六位だったが、一気にごぼう抜きでアメリカに金メダルをもたらした。世界記録の10秒フラットで金メダリストに輝いたボブ・ヘイズだったが、四百メートルリレーの時は9秒台で走ったと言われたものだった。二十一世紀の今でも、史上最速の男はボブ・ヘイズだという人も少なくない。何故なら、彼は前を走っているランナーを必ず抜き去ってしまうからだ。現在のトラックの状態、進化したシューズ、計測システムを考慮すれば、私もきっとそうだと信じている。あの走り方は人間のものとは思えなかった。サバンナを駆け抜けていくジャガーかチータにしか思えなかったのだ。
十月十日に始まったオリンピック東京大会は、二十三日に閉幕。世界強さ、特にアメリカの強さを見せつけられた大会だった。日本人の中にあるアメリカへのコンプレックスが更に強くなってしまったような気がする。
そんな中で唯一安心して見ることが出来たのが、女子バレーボールだった。「東洋の魔女」と世界に畏れられた彼女達は魔女ぶりを如何なく発揮して、金メダルを勝ち取った。そのテレビ中継の視聴率は66,8%。NHKでは瞬間視聴率85%に達したと言われている。スポーツ中継放送では未だに歴代一位だ。勿論テレビのない家庭もまだ多かった時代である。テレビのある家庭だけを対象にした場合~業界用語でセット・イン・ユースという~その視聴率は95%を超えていたと言われている。日本中の人達がテレビ中継を観ていた訳だ。
オリンピック熱が冷めやらぬ頃、運動会があった。リレーでは、トップでゴールインしたアンカーがボブ・ヘイズを真似て、バトンをポーンと宙に投げた。そんな躍動感溢れる光景の中で、ふと彼女の事を思った。思おうとした訳ではなく、勝手に意識の中に入り込んできたのだ。学校に禁止された、通ってはいけない通学路を歩いていた彼女の姿が甦ってくる。
(このグラウンドの何処かにいるのだろうか)
三年生がいる辺りに目がいってしまう。運動会に参加しているのかどうかーーー。おそらく参加していないのではないだろうか。そんな気がした。
三年生の集団がいる前では、応援団長が袴姿で扇子を振って士気を高めている。ああいう連中は、運動会を楽しみにしていたのだろう。しかし、彼女にとって運動会は最も嫌な行事なのかもしれない。走れない。フォークダンスだって、おそらく踊りたくないのではないだろうか。
ぼんやり空を見上げた。空は青い。白い雲がゆっくりと風に流れていく。何だか、小学生の頃のように運動会を楽しめない自分を感じてしまう。それは別に彼女の所為ばかりではない。運動会なんて、義務教育期間の小、中学校だけでいい。高校になったら、好きな奴らだけにやらせておけばいい。」自由参加でいいではないか、などと思った。
昼食後、三年生のフォークダンスが始まった。フォークダンスは三年生だけだ。一年生と二年生にはプログラムされていない。一年生からすると、三年生はかなり大人びて見える。女子は制服に着替えて踊っていた。順に彼女の姿を探してみたが、見当たらなかった。
やがて、自分達一年生の出番だ。重い腰を上げて、入場口へと向かう。手には各々長い棒を持っている。体育の教師の発案でやらされることになった棒体操なる演技だ。体育の授業で、随分と練習させられた。発案者の体育教師が台の上に上がった。
「棒体操、始め!」
教師の号令で、一年生男子が同じ動きを始める。白い体操着と、棒に巻かれたビ二ールテープの赤い色がコントラストになっている。おそらく体育教師は、これを狙ったのだろう。
演技は終わった。別に感動はない。が、台上の体育教師は満足気な表情を満面に湛えていた。生徒は(これで棒体操から解放される)といった感じだ。使い終わったこの棒、一体どうすればいいのだろう。再利用の方法を考えながら、退場行進をした。退場してぶらぶらと歩きながら大会本部のテント脇を通る。その時、テントの奥にちらりと制服姿が見えた。ハッとして注視した。制服姿は、彼女だった。
彼女は、大会本部の仕事を手伝っているようだ。成程、これなら体操着を着用しなくても運動会に参加出来る訳だ。何となくほっとしたような気分になった。(つづく)
秋という季節は、学校では様々な行事が用意されている。運動会が終わったと思ったら、二年生は修学旅行だ。我々一年生は、取り敢えず文化祭の準備だ。三年生だけは受験勉強に拍車が掛かる。とはいえ、文化祭に積極的に取り組む三年生もいた。放課後の様々な部室では、三年生も混じって準備に取り掛かっていた。文化祭といえば、もっぱら文化部が中心になって行われるが、この年は東京オリンピックが開催された影響だろう、陸上部が積極的に活動していた。
自分は、夏休み前に膝を痛めてバスケット部を辞めざるを得なかった。成長期の膝は、過度の練習に耐えることが出来なかった。夏休みを治療に充てたが、なかなか回復せず、医者の忠告でバスケット部を諦めた。期待してくれた先輩達は、しきりと残念がった。
「俺の責任だ。すまん」
練習時間が終わってからも付きっきりで稽古を付けてくれた先輩は、涙を流さんばかりに謝り続けた。
「膝の具合が良くなったら、いつでも戻ってこいよ」
部の連中に優しい言葉を掛けられて、バスケット部を去った。
今更他の部活をやる気にもなれず、放課後は時間を持て余すことになる。痛めたのは左膝だ。病院では、突発性の関節炎だといわれた。しばらくは湿布を巻き続けなければならなかった。湿布は心地良かったが、十日程続けていると暑さの所為でかぶれた。病院へ行って、今度はかぶれ止めの薬を塗ってもらう。何かもっと治療法がありそうなものだが、とにかく湿布を続けるしかないと医者は言った。(つづく)