母のこと  20 | あやちーゆるだらdiary

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自分の身の周りのこと、楽しんだこと、日々のぐちなどゆるくダラだらとかきつづってます。2011.11.17開始

母の闘病生活は約3ヶ月でした。

 

はっきり病名が出るまでに、発症?から2ヶ月。

 

多発性骨髄腫が判明しても、全身状態が悪く、抗がん剤治療は1クール出来たかできないか・・という状態で、

抗がん剤治療の様子や効果などを知りたくて、このブログを見て頂いた人には役には立たなかったかもしれません。

 

それでも、その時の様子を伝えることで、多発性骨髄腫や全身アミロイドーシスで病んでいる方などには、1人の1つのケースだったと、人の役に立ちたいと願い、献体を申し出た母の気持ちは少しは汲めたのかなと思っています。

 

 

病気との向き合い方、献体の考え方・・

思えば、母は強い女性だったのだと気づきました。

私の知らない一面でした。

 

母の姉妹にも母のことを聞くと

私の知らない母の一面が・・

活発に姉妹を引っ張り旅行などをしていたなんて・・・・。

母の母としての顔しか知らなかったのだと思う。

 

 

母がいなくなってから

母の遺品整理は殆ど父と兄夫婦、姉で終わらせてしまいました。

 

私が欲しかったと思う、母の遺品は残っていません。

 

母が最後まで使っていた鞄と免許証、と数枚の写真。

これが、母の遺品です。

 

財産分与についてはまだ手続き中。

これもどうなるのでしょうか。

手続きは兄夫婦がしてくれました。

(主導権は私にはなかった)

 

Y家のなかで、パイプラインをしていた母がいなくなって、私の居場所はY家にはありません。

 

これから、どうなるのかとても不安です。

 

母のいた痕跡は少しずつなくなっていっている。

 

でも母はY家に確かに存在はしていたのですから。

全ての痕跡を消さないでほしいと思うのです。

 

ですが、

Y家と養子縁組を交わしている私ですが、解消も申し出られています。

 

もう少し、私も母も

父も兄夫婦、姉たちも

家族としてお付き合いしていればよかったのかもしれません。

 

それでも、

母の闘病生活の3ヶ月は

家族が母のために・・と一致団結して動いたのは奇跡だったのかもしれません。

 

妹に逝かれ、母も逝った。

私は1人になってしまったという気持ちでいっぱい。

 

年老いて、

老人ホームに入って介護を受けて

老衰で自然のままに逝ければ・・と

母と笑って話していた最期とは違っていた最期だったけれど・・

 

母が幸せだったと思っていてくれれば・・と思うばかりです。

 

これは、本当に私用の母と私の様子の記録簿。

心の整理がつけば・・と思い書きました。

母が亡くなったことが夢物語のようで

中々実感がわきません。

それでも、いつでも電話していた母はもう電話に出る事もなく、

母からの電話もなく・・・

 

実家で会話を交わすこともない・・・。

 

母のことを想う度に涙が出てきます。

いつかこの気持ちが

心に溶けて、身体の一部になってくれることを祈っています。

 

1~20まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

’母のこと’については

一旦終了します。

読んでいただいて、ありがとうございました。