私の仕事の話(暗いです)
今日は時間があるので、仕事の話でも…
私は看護師になって、もうすぐ7年になります。
今の部署は6年。
先輩より後輩の方が多いです。
診療科は消化器内科。
胃腸炎とか胆石の患者さんもいますが、ほとんどは手術で治りきらないガンの患者さんです。
私は元々、緩和ケアに携わりたかったので、望ましい環境だったんだと思います。
最初は先輩や患者さんに怒られたりしていましたが、少しずつ、微力ながらも、患者さんの感謝の言葉を頂くことができました。
例えば
「私が腹痛くなったとき、古屋さんが息切らして痛み止め持ってきてくれてね~、あの時は助かったよ!」
「古屋さんならなんでも話せるから…」
こういう言葉一つ一つが、私の原動力でした。
ただ…
悲しいことに、この言葉を私にくれた患者さんは、亡くなりました。
最初の痛み止めの患者さんは、私がまだ新人のときに、初めて信頼関係を築く事ができた方でした。
痛いときに痛み止めを、急いで持って行くという単純なこと。
朝6時過ぎ、朝の挨拶に行った私に、「腹痛くてさぁ」と彼に言われ、
詰所から一番遠い部屋だったこともあり、急いで行ったせいで私はゼーゼーしながら痛み止めの点滴を持っていったんでした。
(廊下は走っちゃいけません)
そのことをきっかけに、色々な話ができるようになりました。
でも彼は徐々に体が弱っていきました。
同窓会に行った話をしながら、「あともう仲間には、二度と会えないと思ってさ…」と話していたこともありました。
久しぶりに連休をもらった私が、連休明けに仕事に行ったら、既に彼はいませんでした。
空っぽになった病室を見て、少しだけ泣きました。
2番目の方は女性でした。少し珍しい腫瘍の治療に来た方でしたが、ガンになったことでうつ状態になってしまっていました。
色々なお話しをしました。抗がん剤の副作用の脱毛が一番恐い、と話していたので
かつらの見本をかぶってみたり、パンフレットを眺めたり、バンダナを巻くのもお薦めですよ…などなど。
旦那に頼んだらこんなの買ってきたの、男の人はダメね、と言われて見せてくれたのは真っ黒なニット帽。
黒沢年男みたいですね、やっぱり外泊の時に可愛いの買ってくればいいですよ、と話したりして。
珍しい腫瘍ですけど、同じ病気で治療している方は、何回めかの治療を終えて、仕事復帰したんですよ!と教えたら、嬉しそうに「私だけじゃないんだ」と話していました。
ただ…今思うと、笑顔がぎこちなかったかな…
何回か抗がん剤もできて、「先生より看護師さんの方が話せるの。看護師さんの中でも、古屋さんと、後何人か話しやすい人がいてつい話しちゃう」と言ってくれていました。
その後、外泊許可が出て、「リフレッシュしてきて下さいね」と声をかけたら、頷いて旦那さんと自宅に向かって行きました。
でも、彼女を見たのは、それが最期でした。
外泊している最中、彼女は自宅から失踪してしまったんです。
その後、地元の海から、彼女らしき遺体が発見されて。。
リフレッシュしてきて下さい、と言ったときにニコッと笑ってくれた顔が浮かんで…
ショックで真っ白になってしまいました。
うつ病は、よくなってきたかな?って周りが思った頃が一番危険なんだそうです。
気づいてあげてれば…と思った私に、先輩はそう教えてくれました。だから、責任を感じなくていいって。
でも今でも悲しい気分になります。
他にも、数えたことはないけれど、多くの患者さんの最期を看取りました。
妹さんに、「迷惑かけてすまなかった。今までありがとう。ありがとう。」と言いながら亡くなった方もいたし
息苦しさで私の手をがしっと掴んで「苦しい!古屋さん助けて!」と叫んだ患者さんもいました。
身寄りがなくて、臨終の時に牧師さん一人しかいなかった人…
40代で、子供がまだ小さい方の時は「おかあさーん」という泣き声が廊下の端から端まで響いていました。
30代の男性の方は、母親が名前を呼びながらいつまでも体をさすっていました。
10代の女の子の時は…先生も心臓マッサージの手を止められなくて、何時間も蘇生を試みたけど、結局戻らなくて…最期の言葉は、倒れ込む前の「もうダメ」という一言だった。
そんななか、つい考えてしまうのは、自分の最期。
生きざまと言うか、人生のエピローグにこれだけ触れると、
自分の人生の空虚さに呆然としてしまいます。
そして、今の部署からも離れることを考えています。
今まで経験したことを糧にすればするほど、そう思います。
飾れるだけの内容はないけれど、
後悔しないように生きたいです。
Android携帯からの投稿
私は看護師になって、もうすぐ7年になります。
今の部署は6年。
先輩より後輩の方が多いです。
診療科は消化器内科。
胃腸炎とか胆石の患者さんもいますが、ほとんどは手術で治りきらないガンの患者さんです。
私は元々、緩和ケアに携わりたかったので、望ましい環境だったんだと思います。
最初は先輩や患者さんに怒られたりしていましたが、少しずつ、微力ながらも、患者さんの感謝の言葉を頂くことができました。
例えば
「私が腹痛くなったとき、古屋さんが息切らして痛み止め持ってきてくれてね~、あの時は助かったよ!」
「古屋さんならなんでも話せるから…」
こういう言葉一つ一つが、私の原動力でした。
ただ…
悲しいことに、この言葉を私にくれた患者さんは、亡くなりました。
最初の痛み止めの患者さんは、私がまだ新人のときに、初めて信頼関係を築く事ができた方でした。
痛いときに痛み止めを、急いで持って行くという単純なこと。
朝6時過ぎ、朝の挨拶に行った私に、「腹痛くてさぁ」と彼に言われ、
詰所から一番遠い部屋だったこともあり、急いで行ったせいで私はゼーゼーしながら痛み止めの点滴を持っていったんでした。
(廊下は走っちゃいけません)
そのことをきっかけに、色々な話ができるようになりました。
でも彼は徐々に体が弱っていきました。
同窓会に行った話をしながら、「あともう仲間には、二度と会えないと思ってさ…」と話していたこともありました。
久しぶりに連休をもらった私が、連休明けに仕事に行ったら、既に彼はいませんでした。
空っぽになった病室を見て、少しだけ泣きました。
2番目の方は女性でした。少し珍しい腫瘍の治療に来た方でしたが、ガンになったことでうつ状態になってしまっていました。
色々なお話しをしました。抗がん剤の副作用の脱毛が一番恐い、と話していたので
かつらの見本をかぶってみたり、パンフレットを眺めたり、バンダナを巻くのもお薦めですよ…などなど。
旦那に頼んだらこんなの買ってきたの、男の人はダメね、と言われて見せてくれたのは真っ黒なニット帽。
黒沢年男みたいですね、やっぱり外泊の時に可愛いの買ってくればいいですよ、と話したりして。
珍しい腫瘍ですけど、同じ病気で治療している方は、何回めかの治療を終えて、仕事復帰したんですよ!と教えたら、嬉しそうに「私だけじゃないんだ」と話していました。
ただ…今思うと、笑顔がぎこちなかったかな…
何回か抗がん剤もできて、「先生より看護師さんの方が話せるの。看護師さんの中でも、古屋さんと、後何人か話しやすい人がいてつい話しちゃう」と言ってくれていました。
その後、外泊許可が出て、「リフレッシュしてきて下さいね」と声をかけたら、頷いて旦那さんと自宅に向かって行きました。
でも、彼女を見たのは、それが最期でした。
外泊している最中、彼女は自宅から失踪してしまったんです。
その後、地元の海から、彼女らしき遺体が発見されて。。
リフレッシュしてきて下さい、と言ったときにニコッと笑ってくれた顔が浮かんで…
ショックで真っ白になってしまいました。
うつ病は、よくなってきたかな?って周りが思った頃が一番危険なんだそうです。
気づいてあげてれば…と思った私に、先輩はそう教えてくれました。だから、責任を感じなくていいって。
でも今でも悲しい気分になります。
他にも、数えたことはないけれど、多くの患者さんの最期を看取りました。
妹さんに、「迷惑かけてすまなかった。今までありがとう。ありがとう。」と言いながら亡くなった方もいたし
息苦しさで私の手をがしっと掴んで「苦しい!古屋さん助けて!」と叫んだ患者さんもいました。
身寄りがなくて、臨終の時に牧師さん一人しかいなかった人…
40代で、子供がまだ小さい方の時は「おかあさーん」という泣き声が廊下の端から端まで響いていました。
30代の男性の方は、母親が名前を呼びながらいつまでも体をさすっていました。
10代の女の子の時は…先生も心臓マッサージの手を止められなくて、何時間も蘇生を試みたけど、結局戻らなくて…最期の言葉は、倒れ込む前の「もうダメ」という一言だった。
そんななか、つい考えてしまうのは、自分の最期。
生きざまと言うか、人生のエピローグにこれだけ触れると、
自分の人生の空虚さに呆然としてしまいます。
そして、今の部署からも離れることを考えています。
今まで経験したことを糧にすればするほど、そう思います。
飾れるだけの内容はないけれど、
後悔しないように生きたいです。
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