平成27年2月10日。
わたしの大好きだった
おばあちゃんの命日。
このおばあちゃんのことを
思い出すきっかけになったのは
ひとつのアンケート。
『食事介助において工夫していること』
絞り出す、というよりは
思い出す、というか。
過去を辿っていくなかで
優しい記憶が呼び起こされた。
以前、そのおばあちゃんのことを
ここでも綴ったけれど、
本当にご飯を食べない方で。
ご飯という認識はほんの少しあるくらい。
口に入れば、
ゆっくり、苦しそうに飲み込む。
咀嚼と、嚥下機能の低下は著しかった。
少しでも食べてほしくて。
点滴とか他から栄養を摂るのではなくて
少しでも口から食べてほしくて。
でも無理をしたら、
誤嚥してしまうかも知れない。
楽しいはずの食事の時間が
苦痛になってしまうかも知れない。
ただのわたしの『食べてほしい』
という気持ちと、
『無理してほしくない』という気持ちが
常に心の中で闘っていた。
時折見せる険しい表情が
わたしの想いを揺るがせる。
そのおばあちゃんにとっての幸せ。
果たしてご飯を食べるということが
本当に幸せなのだろうか。
ご飯を食べる意味。
人それぞれ違うと思う。
ただただ、生きるため。
命を先に繋ぐため。
根本的な部分は
ここにある。
空腹を満たすため。
幸せを感じるため。
様々な理由があるなかで
わたしはそのおばあちゃんに
どんな想いで介助していたのだろう。
【担当だから】と
周りの目を気にしていたのか
【死】を感じることが
心底怖かったからなのか
一緒にいられる時間を
少しでも持っていたかったからなのか
時々見せる美味しそうな
幸せそうな顔が見たかったからなのか
おそらく、
全てだと思う。
食事を摂ってもらうことは大切。
どんなに怪訝な顔をされても、
全量食べるということはとても大切。
命をお預かりしている
一介護員として、
とても大切なことだと思っている。
でも、本当は、
できたら、おいしいと思ってもらいたい。
できたら、楽しみって思ってもらいたい。
できたら、嬉しいって思ってもらいたい。
できたら、
その人の笑顔が見たい。
どんな介助でも
言えることだけど、
一対一で関われる
最高の時間。
排泄は、1日の中で
一番多く関われる介助だけど、
食事は一番長く向き合える
大切な介助だと思う。
わたしたちには当たり前すぎて
忘れてしまっていたのかも知れない。
ご飯を食べられる幸せ。
自分で食べられる幸せ。
おいしいと感じられる幸せ。
口から食べられる幸せ。
ご飯だと理解できる幸せ。
お腹いっぱい、と感じられる幸せ。
自分で食べられる自立の人も
介助が必要な人も
終末期ケアで対応している人も
わたしたちも
どんな人でも。
この1回の食事は貴重なもの。
1回の食事、一口のご飯を
大切にしていきたい。
たったひとつのアンケートで
大切な想いを心にしまうことができた。



