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暗い部屋の片隅で、パソコンの弱く無機質な光が溜まっている。イタリアブランドの革の椅子が不気味に黒く光って、かろうじて照らされた壁には、いくつかの貼り物の角がめくれあがっていた。誰もいない、他に何もない、さびしいほど広い部屋。雑に開け放たれたカーテンの向こうの漆黒に月はなく、はるか下のほうに群れる街の明かりはここまで届いていなかった。

さきほどから断続的に続く、リビングからのガラス質の破壊音。“超”が付くほどの高級高層マンションのワンフロアが住まいのここの住人にとっては、その音が周囲にもれる心配など、する必要はないのだろう。





スン、スン…。





飾りのついたワイングラス、すずらんを模したガラス製のランプ、ウェッジウッドの皿、祈る天使の像、いつからあるかもわからない花瓶、もらいものの酒瓶。その色とりどりの大小の破片が、薄暗いリビングの20畳ほどのフローリングの上で、銀河のように散っている。

素足でその中心に立ち、肩で息をする汗だくの男の足元には、比較的原形をとどめたままの、ラグビーボールほどのすずらんの花が転がっている。膝をついて、その群青色のかたまりをめがけて、ふり上げた握りこぶしを一発、二発、三発と、確実に打ちおろしていく。花びらに守られていた電球も砕かれて、たちまちのうちにそれは男の血肉のこびりついた星屑になって広がった。


スン、スン…。

ぬうっと立ち上がり、数メートル離れたキッチンから様子を見ていた妹にようやく気付いたかのように、男はそっちのほうへ向かってゆっくり歩き出す。男の顔は陰になっていたが、それでも鼻のあたりから血があふれているのがわかる。しかし、数歩も進まぬうちに足が止まって、糸が切れたようにうつぶせに倒れた。そのはずみで転がる、ほのかに青白い天使の首。

じわじわと出つづける黒みがかった血液は、男から湧き出る衝動そのもののようだった。





スン、スン…。










「いらっしゃいませ、般若様。今夜も『お京』でよろしかったですか?」

真紅に塗られた階段を降りて重厚な銀色の扉をあけると、ボーイがそう言ってうやうやしく奥のVIPルームに案内する。

「頼む」

とだけ答えて、無数のライトの刺々しいほどのきらめきの中を進んでいく。酒と香水と煙草のにおい。ふと、彼女のかすかな香りを捉える。あぁ、今日もいる。大勢の話し声のする中で自分の名前を話す声を聞き分けることをカクテル・パーティー効果というらしいが、聴覚だけでなく嗅覚にもそういう選択的な捕捉力があるのかもしれない。

突き当たりの壁に飾られている【High and Dry】と書かれた、遠い目つきのダルメシアンのポスター。VIPルームの馬鹿でかいソファ。そして、なにも言わなくても出てくるビールとピスタチオ。何百回と繰り返してきたこの一連の様子をどこか懐かしく思った。そして、そろそろここから抜け出したいのに、という葛藤の混じった願いを弄んで、ビールはあっという間になくなっていく。





『お京』は入ってくるなり小走り気味に隣に座り、浮かない顔をしているおれの肩に頬をふわりと乗せた。少しして顔をあげ、その肩に付いたかもしれない紅を払うように軽く指先ではたく。その所作のすべてを、ごく自然に愛しいと感じた。

「おかえりなさい、般若さん。…なにかあったの?」

手を肩に添えたままわざとらしくささやき声で言ってくる。完成された小さな顔がすぐ近くにある。ひとの気持ちを知ってるくせに、それでも数秒で心を浮かせてくる。これが『ミッドリーム』No.2の実力か、と改めて感心する。



「失礼します」

ボーイが入ってきて、ラフィット・ロートシルトとかいうどうでもいい高級ワインを注いで行った。ワインの年を言ったようだったが耳には入らなかった。ボトルを置いた位置も遠くてわからないが、べつに額を気にしたことはない。金ならある。No.1を目指す彼女に貢献できればそれでいい。



「おかえりなさい?天下の『ミッドリーム』はメイド酒場になり下がったのか?」

その言葉に、猫のポーズをとってニャアとおどけるお京。

「そのセリフはぜひ、おれの家の中で聞きたいよ」

お京は姿勢を正すようにしながら少し困った顔を微笑みでごまかした。

「来期からNo.1として働けそうなところまできたんだろ?もうお店を辞めたっていいじゃないか」

「…早くおれのもとに来てくれ、泉」

少し間をおいてそう言うと、一瞬落とした目線を戻し、ワイングラスを持って

「ここでは『お京』と呼んでくれないと困ります」

と、【mid-dream】と彫られたコースターを顔の前で小さく振りながら注意をして、彼女はひとくち飲んだ。



「…お店は、もう辞めます」

思わず彼女を見つめなおす。

「でも、」

「やっぱりまだあたしは賢く遊んでいたいんです」

そう言って見せた笑顔には力強い意志があって、無性にかなしくなった。

「あたし、ある大企業の社長さんに気に入られて、秘書にならないかって誘われてるんです。せっかく生まれてきたんだから、いろんなことして、いろんな人に会ってみたいなぁ…と思って」

「そんなの、おれと一緒になったってできるじゃないか」

ちょうどそのとき別の女の子が部屋を仕切る厚手のカーテンから顔をのぞかせて、男の言葉に食い気味に告げた。

「お京さん、社長さん帰られるみたいですよ」

その言葉に振り向いて、「あ、いま行く」と反射的に立ち上がって歩きだす彼女。

「おい待てよ、泉」

勢いよく立ち上がりかけた体に何かが後ろで引っかかった。どさっとソファに落ちる。こっちを振り返りもせずに消えていく彼女を追いかけようと、もう一度立ち上がろうとするが、引っかかっていて動けない。はずそうと背を見ると、それはソファから出てきたヒトの「手」だった。引っかかっているのではなく、引っ張られていた。視線を感じてハッと正面を向くと、いつの間にか部屋の入口にダルメシアンが座っている。焦って状況の理解が追いつかない。ズズズ…と増えてくる手、手、手、手。自分の腹からも血にまみれて出てきた誰かの手。

「ぐうぁあ…」

いくつもの手に四肢もつかまれて、抵抗むなしくずぶずぶとソファの内側へ引きずり込まれていく。

「泉!」

声をふりしぼる。

「お、お京!」

彼女どころか、誰ひとり来ない。

ダルメシアンは静かにこっちを見つめたまま、かすかに鼻を鳴らしたように聞こえた。






「いずみ…!!」








男は自分の叫び声で目が覚めた。

自分をのぞく、逆さまの女の顔が見えている。その女の膝を枕に寝かされていた。ズキっとして自分の手を見ると、こぶしに包帯が巻かれている。

何かを思い出したかのようにふつふつとこみあがる感情。勢いよく上半身を起こし、その膝の主を押し倒して馬乗りになるとブラウスを力任せに引きちぎった。露わになった白く幼い華奢な肌。右の肩から乳房にかけて広がる、見覚えのあるやけどのような痕。抵抗する様子もなく、何を言うわけでもなく、ただスン、スン…と鼻を鳴らすクセは、間違いなく妹だった。



鼻に詰められていた脱脂綿を引き抜くと、血はもう止まっているようだった。それらをその場にうち捨てて立ち上がると、痛みの残るみぞおちに気づいて押さえる。明かりの灯ったリビングはすっかり片づけられていて、さっきまで銀河があった場所を通って、男はぶつぶつと独り言を言いながら自分の部屋に入った。パソコンの画面には赤く光る警告表示が出ていて、「泉(部屋)-受信不能」と表示されていた。



「泉、きみは忘れているんだろう?あの約束を」

大丈夫、思い出させてあげるよ。と、心の中でつづけた。そして画面のプルダウンから「泉(携帯)」を選択すると、緑色で「受信中」と表示が変わり、サムネイルの地図上にマークが点滅し始めた。男はその顔に、静かな微笑みをたたえた。





これがおれの愛し方だ。





部屋の窓には雨がまるで激しく何かを訴えるように当たっていたが、ことごとく無音で滑り落ちていく。

包帯の巻かれた両の手を祈るように組み合わせる。彼女に会えるなら、彼女の心を自分の愛で満たせるなら、どんな痛みも乗り越えてみせる。でもまだ、まだおれの愛が足りないんだ…と男は思った。

開けっぱなしのドアから差し込むリビングの明かりに、貼り物が壁一面にびっしりと敷きつめられてあるのが浮かびあがる。

それらは、すべて泉の写真だった。