人を信じすぎるがゆえに、悪意をすべて「善意」か「感動の再会」に変換してしまう主人公。そんな彼に振り回される詐欺師の悲哀を描いた短編小説です。
善意の暴走、あるいは田中という名の呪い
窓の外では、うららかな午後の陽光が降り注いでいた。
佐藤健一(32歳)は、あまりにも人を疑わない。道端で「財布を落とした」と言われれば一万円を貸し、怪しげなツボも「運気が上がるなら」と笑顔で購入する。そんな彼のもとに、運命の――あるいは不運な――一本の電話がかかってきた。
「……オレオレ、俺だけど?」
受話器の向こうから聞こえるのは、低く、少し焦ったような男の声。健一の脳内に、過去の膨大な名簿が高速で展開される。
「オレ? え? ま、まさか……田中か!? 田中なんだな!?」
「そ、そうそう! 田中だよ! よく分かったな」
犯人は内心ほくそ笑んだ。名前を当てる手間が省けた。これはカモだ。
「当たり前だろ! あの、小学生の時に喧嘩別れして、それっきり引っ越しちゃって……。仲直りできなかった、あの田中なのか!?」
「あ、あー、そうなんだよ。ずっと気にしててさ……。実は今、ちょっと困ったことになってて。急ぎで金が……」
「ああ! やっぱりそうか! 田中、あの時は本当に悪かった!」
健一の声は震えていた。
「オレ、お前がウンコ漏らしたなんてこれっぽっちも気づかずに、強引に体育の授業で『跳び箱勝負やろうぜ!』なんて誘っちまって……!」
「い、いや、もうあの時のことはいいから……」
「よくないよ! そして、お前は気合を入れて助走して、最高にかっこよく跳び箱の上に着地して……そして、衝撃で全部出ちゃったんだよな!」
「もういいって言ってんだろ! 人の話を聞けよ!」
犯人の声がわずかに荒らげる。だが、健一の「懺悔モード」は止まらない。
「いや、そういうわけにはいかないだろ! お前はあの後、あだ名が『黄金の着地』になって、そのまま転校しちまって……何年も苦しんできたはずだ。ここでオレがきっちり謝らないと、お前の呪縛は解けないんだ!」
「分かった! 分かったから! ……実は、俺は違う田中だ。ウンコ漏らした田中じゃねえよ!」
犯人は反射的に否定した。プライドが、たとえ偽物の自分であってもその設定を受け入れることを拒否したのだ。
「えっ、違う田中? ……あ! まさか、中学の時に授業中にふざけて、後ろから思いっきり背中を叩いたら**『ブリッ』ってオナラが出て**、それ以来卒業まで『背中オナラスイッチ』ってあだ名で呼ばれた田中か!?」
「……」
「それとも、高校の時に好きな子に告白する勇気がないお前のために、オレが間を取り持とうとしたら、なぜかその子がオレのことを好きになっちゃって、そのままオレとその子が付き合うことになった、あの悲劇の田中か!?」
電話の向こうで、犯人の呼吸が荒くなるのがわかった。
「……お前、どんだけ田中に恨み買うようなことしてんだよ! もういい! あれだ、お前と面倒くさい過去が一切ない田中だ! いいから聞け! オレは今、仕事でトラブルを起こして、すぐに示談金がいるんだ。今日中に振り込んでくれねえか?」
健一はハッとして、息を呑んだ。
「え? ま、まさか……それって今流行りの、色んな人から金を集めて……」
犯人は身構えた。(ちっ、ようやく気づかれたか……?)
「……色んな人からお金を募って、大きな事業を立ち上げて、大儲けして皆に色をつけて返すっていう、**『クラウドファンド』**ってやつか!? すげーな田中! 社会起業家を目指してたのか!」
「へ? あ、あー……まあ、そんな感じだ。だから頼む、投資だと思って……」
「そしたら、オレが良い話を紹介してやるよ! 実はちょうど昨日、知り合いから『一日で確実に元本が十倍になる美味しいクラウドファンド』の話を聞いてさ! 今からそのURLを送るから、お前もそこに投資して示談金を稼げよ! 審査も何もない、名前を入れるだけで……」
「いや、お前それ絶対詐欺だから!!!!!」
犯人の絶叫が受話器を震わせた。
ガチャンッ!!
無機質なツーツーという音が響く。健一は呆然と受話器を見つめた。
「あれ? 田中? 田中ー!? ……なんだ、せっかく助けてやろうと思ったのに。やっぱり田中は、昔から照れ屋で損な性格してるなあ」
「まあいいか。田中が元気そうでよかったよ」
彼は窓の外を見上げ、清々しい笑顔を浮かべた。
完