中林梧竹の書-百代の新風- 五島美術館 | さるすべり日記

中林梧竹の書-百代の新風- 五島美術館

サーチ 「中林梧竹の書-百代の新風-」  五島美術館



■ 期間=2007年6月23日(土)-7月29日(日)
■ 主催=財団法人五島美術館/徳島県/佐賀県小城市/徳島新聞社/佐賀新聞社
■ 後援=佐賀県
■ 特別協力=徳島県立文学書道館/小城市立中林梧竹記念館/梧竹の会
■ 概要
中林梧竹(なかばやしごちく 1827~1913)は、佐賀県小城市出身の幕末から明治時代にかけて活躍した書家。副島蒼海に影響を与えた梧竹の書は、近代書家でもっとも早くその芸術性の高さに注目され、今でも愛好者が多い。今回は、代表作、新出作品、資料(書簡・遺品)など約70点の展示(期間中、一部展示替があります)。明治という時代より一歩先んじていると自ら吐露した、書芸術の珠玉の名品が一堂に揃う東京初の回顧展。
中林梧竹は文政10年(1827)4月19日、現在の佐賀県小城市に生まれ、鍋島藩に仕える。名は隆経、通称彦四郎、号は「梧竹」「個閑」「一個閑人」「煙霞中人」など数多い。幼少から書に親しみ神童とうたわれ、藩校・興譲館に学ぶ。「副島種臣は学問をもって盛名を馳せ、梧竹は書をもって高名をあげるだろう」と佐賀藩主が称嘆したと伝えられる。若くして江戸に出て、唐様書道を代表する市河米庵に学び、さらに中国古典法帖、特に王羲之の書を熱心に習得した。明治4年(1871)廃藩置県後、書に専念する。明治15年(1882)50歳代後半に中国清に留学、帰国後銀座に住み、銀座の書聖と称され書家として旺盛な活動を展開したが、最晩年には小城に戻る。梧竹は、蒼海との親交が知られる。政治家としても活躍した蒼海とは異なり、近代における書芸術を実践する魁として生き、自らの書について「今書く字は今の人には分らぬ、百年も後になればわかるだろう」と吐露したという。本展は、梧竹の最大の収集家である海老塚的伝翁が徳島県に寄贈した逸品と、梧竹の故郷小城市に伝わる作品を中心に、東京で初の名品展(期間中、一部展示替があります)。


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6/24(日)の講演会 「梧竹体験」日野俊顕氏(梧竹の会代表)  に行ってきました

今まであまり近代の書は身近ではありませんでしたが
この展覧会や日野さんの講演会を通じて すっかり梧竹さんのファンになってしまいました


日野さんは 徳島の中学校で数学を教えていらしたという経歴の持ち主で

書の分析も数学的なセンスがあるとのご紹介でした
講義の中でも作品に補助線を入れたりしていましたが それ以上に

博士の愛した数式のように 美しさ 役には立たないが心を豊かにする書の素晴らしさ

梧竹さんの書を慕う気持ちが溢れていて 話は理路整然としているわけではないのに

一つのことを追い続けてきたその蓄積により 話が次々に脱線していくのに

グイグイと引き込まれていきました
「役には立たない」と断定していて 
しかも何度も念をおしていましたが

ここまで梧竹さんの書を追い続けてきた方に「役に立たない」と言い切られると

だんだんそうかなとも思うし 役に立つって何のことだろう?

とさえ思うようになってしまいました(笑)
条幅の鑑賞方法については 一幅だけ見ることが大事とおっしゃっていました

6~8畳くらいの部屋に一幅だけ掛けて座って見ると

書が ぶわぁーっ と迫ってくるのだそうです
展覧会でも左右の視界をパンフレットなどで遮断して 作品をひとつずつ見ること

普通にみると どうしても隣の作品が視界に入って 邪魔をするのだそうです


私は、講演会の前に展示をぐるっとひと回りしていました
部屋に入ると すぐに色々な書や竹の絵が目に入り

いつものひんやりとした展示室とは 随分と雰囲気が違うようでした
まず 第一印象は なんてあかるいんだろう ってことでしょうか


梧竹さんは 江戸時代を40年 明治時代を40年生き そして大正2年に87歳で亡くなりました
肥前 現在の佐賀県小城市の生まれで 19歳で江戸に留学し その後小城に戻ったり

江戸に出府したりするものの 明治維新後 40歳以降は書の研鑽に励み

56歳のときに清国(長崎⇒上海⇒天津⇒北京)に渡ります

65歳の夏には 北方心泉・日下部鳴鶴・巌谷一六と淀川に舟遊

72歳 富士山頂に鎮国之山銅碑を建立 建設許可の手続き 鋳造の注文 すべて自分の手で進め

100人超のボランティアの協力により 山頂に運ばれ 除幕式には自ら登頂して記念写真におさまるという

フットワークの軽さ 80歳のときにそれまで使っていた長鋒筆から短鋒筆に持ち替えました
86歳の10月 中風に罹り 翌大正2年5月 三日月村荘に帰って療養したそうです


同村の古川氏が鱸(すずき)を持って見舞ったのに対する礼状が展示されていました


・・・『後赤壁賦』はこのあと「魚がとれたが、さて酒はどこで手に入れたものか」と続くので

千代雀商店であった古川氏にぴったりの引用である。終わりの「呵々」の2字に

手足の不自由な病の身をかこつ哀感がこもている。・・・


と解説にありました こう言われては笑ってお酒を届けるしかないですよね

具合が悪くて人に愚痴をこぼすときでも 何か余裕や明るさ そして気概を感じました

梧竹さんは 自作の漢詩もよく書いています

江戸から明治への激動の時代を生きた人々にとっての 漢詩・漢文 について

あまり知らないものですから 本を読んで事前学習です

齋藤希史さん 「漢文脈と日本」(NHKブックス) 





とても読みやすいのでおすすめです

齋藤希史さん は 『漢文脈の近代 ― 清末=明治の文学圏』(名古屋大学出版会)で

2005年サントリー学芸賞(芸術・文学部門)  を受賞していたのですね


なぜ漢文漢詩がすたれてしまったのか それらをないがしろにしてきたから今の日本はだめなのか

いや 近代日本の文体や思考を支えた漢文の素養を やみくもに復活させればいいというわけではない

私達が遠ざけてきた世界から目をそらすことなく 今ままでの経緯を追い また相対化することで

そのまま受け継ぎ遺すもの 今やこれからのために足していく 何か を探る手がかりが

見つかるのではないか 手で書くこと その自由と不自由 書道をはじめる動機

自分が感じている書の愉しさ素晴らしさを どう伝えて どう感じてもらうか
いつもは自分のお稽古のことで精一杯ですが 少しだけ周りや外の世界にも目をむける

きっかけを頂いた気がします