【カンボジア 1月7日(プラムピー・マカラ)記念日】
1月7日(プラムピー・マカラ)プノンペン解放記念日、これは1979年に起こったことを記念する祝日ですが、少々複雑な背景もあります。
これを理解するにはその前に起きた2つの出来事から辿るのがわかりやすいです。
1つ目の出来事は、1970年3月です。
隣のベトナムではアメリカとの戦争が激化する中、当時のシハヌーク国王は北ベトナムのホーチミン軍がアメリカ軍を攻撃するためにカンボジア国内を通り抜けることを容認していました。「ホーチミン・ルート」と呼ばれる兵站補給路です。
このホーチミン・ルートを断ち切るためにアメリカは、シハヌーク国王の外遊中にアメリカ寄りのロン・ノル将軍を使ってクーデターを起こした後、このカンボジア領内のホーチミン・ルート沿いに大規模な空爆を行いました。ここからカンボジアの戦乱の歴史がスタートしたわけです。
2つ目の出来事はその5年後、1975年4月、ついにアメリカ軍がベトナムから撤退を始める中、カンボジアでは民衆の指示を得た「クメール・ルージュ」を率いる「ポル・ポト」が首都プノンペンからアメリカの傀儡政権を追い落として民衆から英雄として称えられますが、そこから始まったのが中国の文化大革命に倣った恐怖政治、鎖国政策の始まりでした。
当時の総人口は700万人ということでしたが、それが1979年までの間に300万人まで減少しています。
100万人くらいは海外へ逃亡したとも言われますが、それ以外は強制労働と劣悪な環境から病気や飢餓で死亡したり、拷問や処刑で命を失ったということになります。
ナチス・ドイツはユダヤ人を600万人虐殺ということで、カンボジアの倍以上かもしれませんが、同じ民族の中でこの割合で行われた虐殺は世界でも類を見ないでしょう。
この1975年4月から1979年1月までの約4年間、これでもかというほどの地雷が国境沿いに埋められて海外と遮断されていたので、今の北朝鮮以上に何が行われているのか海外からは窺い知ることができませんでした。
これはまだ50年くらい前のことです。
そして4年後の1979年1月7日、ベトナムの支持を受けたヘン・サムリン率いる解放軍がプノンペンをクメール・ルージュから開放したというわけです。その流れを汲む与党のカンボジア人民党にとって、功績をアピールし続ける意味で他の祝日を上回る盛大な式典が毎年執り行われるのもわかりますが、与党の政治利用の色合いが強いことも否めません。
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その後も自衛隊初のPKO海外派遣にもなった国連平和維持軍手動による1993年の選挙まで内戦は続きましたが、その後フン・セン元首相による30年以上の独裁的ではあるものの安定した統治が行われて、経済的にも多くの分野で大きく発展して現在に至ります。
ただしまだ世界のレベルに達していない分野があります。
その一つがスポーツで、そういう意味ではカンボジア初のスポーツ世界一は、ぜひともプロボクシングの世界チャンピオン誕生という形で叶えられればと思っております。
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カンボジア・プロボクシング・コミッション Cambodia Professional Boxing Commission (CPBC)
理事・事務局長
磯部正広 ISOBE Masahiro (Mashiro)




