「反省とおわび」の日韓共同声明、「韓国は二度と問題にしないと何度も言った」?? | 東京リーシングと土地活用戦記

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2014.5.8 16:09
【角栄の流儀・小渕恵三元首相編(下)】
「反省とおわび」の日韓共同声明、「韓国は二度と問題にしないと何度も言った」


 「内閣支持率なら、何も心配はいりません。今より下がることはありませんから。上がるだけですから」

 小渕政権の官房副長官だった新党大地代表、鈴木宗男は平成10年7月の内閣発足直後に、小渕を励ましたことがある。

 産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査で小渕内閣の発足直後の支持率は26・5%。不支持率は52・5%に達していた。各社の世論調査でも支持率は軒並み3割程度だった。

 鈴木自身も内心、先行きに不安を抱いていたが、あえて小渕を鼓舞したのだ。小渕は力なく「まあ、そう思えばいいか」と応じるだけだった。

 その小渕が低支持率からの脱却を果たす転機の1つとなったのが外交だった。

 精力的な外交を展開していた前首相、橋本龍太郎から任期途上で政権を引き継いだため、首相就任直後から外交日程はめじろ押しだった。就任2カ月後の9月は日米首脳会談、10月は韓国大統領、金大中の来日、11月にはモスクワでの日露首脳会談に加え、中国の国家主席、江沢民が国賓として来日することになっていた。


小渕はまず、10年10月の日韓共同宣言で過去の歴史について「痛切な反省と心からのおわび」を明記し、両国間の交流を深化させることで合意した。韓国への戦後賠償は昭和40年の日韓請求権協定で解決済みだったが、両国間の条約や関連文書に謝罪の文言はなかったのだ。

 「とにかく文書で1度、謝ったら二度と過去を問題にしないというメッセージが韓国政府から何度もきた。それで政治的な決断をした」と小渕政権の外相、高村正彦は証言する。

 小渕の次女、元少子化担当相の小渕優子も父が「20世紀に起こったことは20世紀のうちに解決したい」と語ったのを記憶している。

 韓国側の対応は「河野洋平官房長官談話」の策定過程で示した要求の蒸し返しとも思えたが、小渕は単なる譲歩ではなく「旧世紀の負の歴史の清算と、未来志向の関係構築を目指していた」(外務省OB)という。

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 その姿勢を示すことになったのが、翌11月に来日した江との首脳会談だった。中国側もまた、事前協議で共同宣言に謝罪の明記を要求してきたのだ。日本は、昭和47年の日中国交正常化の際の「共同声明」で「責任を痛感し、深く反省する」とおわびを明記している。中国が日韓の宣言に刺激され、明記を求めてきたのは明らかだった。江の到着を翌日に控え、小渕は高村を首相官邸の執務室に呼んだ。

「日本国民の多くは謝ってからでないと話が始まらないようではイヤだという気持ちを持っている」。2人の現状認識は一致しており、文書に明記しない方針はすぐに確認された。

 ただ首脳会談で決裂はできない。高村が「首相から口頭で謝ってもらうというカードを最後に切ることになるかもしれません」と伝えると、小渕は「高村君だけいいところ、やるんだな」と冗談めかしながらも即座に了承した。

 打ち合わせた通り、首脳会談では小渕が謝罪の言葉を口にしたが、文書化は見送られた。首相秘書官の古川俊隆は「江主席はむっとした表情だった」と証言する。不満を抱いたためか、江はその後も宮中晩餐会(ばんさんかい)など滞在日程のほどんどの機会に歴史問題を持ち出した。日本の世論は次第に、謝罪の明文化を拒んだ小渕の判断を評価する方向に傾いていった。

 平成11年3月、能登半島沖の不審船事件で、自衛隊発足後初めての「海上警備行動」発令を承認したのも小渕政権でのことだ。

 不審船は海上保安庁巡視船艇の停船命令や威嚇射撃を無視し、北朝鮮方面に逃走した。北朝鮮は前年に弾道ミサイル「テポドン1号」を三陸沖に着弾させたばかり。過去の日本人拉致事件に不審船が関与していたことも分かり、強い対応が不可欠と判断したのだ。当時、自民党幹事長だった元首相の森喜朗は「小渕さんは『逡巡(しゅんじゅん)せず、やるべきことはピシッとやる』という考え方だった」と話す。

 一方で、普段の外交姿勢は温和な小渕のイメージそのものだった。小渕第2次改造内閣で運輸相を務めた二階俊博は「国の大小、力のあるなしを超えて随分、諸外国との連携には力を入れていた」と振り返る。

 温和な小渕が節目節目でみせる果断な外交決断によって支持率はじりじりと上昇し、政権発足1年後の11年7月の産経・FNN合同調査で内閣支持率は42・1%になっていた。

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 小渕の外交分野での一大決断はなんと言っても、12年の主要国首脳会議(サミット)の開催地を沖縄県名護市に決定したことだった。福岡、宮崎、北海道…。いくつもの候補地のなかで、小渕の意中の地は沖縄だった。小渕は、早大在学中、米国の占領下にあった沖縄を何度も訪れたことがあり思い入れの地だった。しかし最も条件が悪いとされたのも沖縄だった。

発表前日の11年4月28日午後。首相官邸の執務室に、官房長官の野中広務、外相の高村、警察をたばねる国家公安委員長の野田毅の3人が集められた。秘書官たちは退席を命じられた。

 「どうしたらいいかな」

 問いかける小渕に、野田は沖縄を推した。「ただし、警備は大変ですよ」と付け加えた。

 安堵(あんど)の表情を浮かべながらも、小渕は高村には「沖縄開催で米国は大丈夫か」とたずねた。高村は「大丈夫です」と即答したが、小渕は慎重だった。「米国が心の底から納得しているか、もう一度調べてくれ」

 米国にとって沖縄は基地問題を抱える難しい島だ。米政府に対する配慮だった。高村が再度、米側の意向を確認するために開催地の発表はひそかに1日繰り延べされた。

 サミット開催を4カ月後に控えた12年3月25、26両日、小渕は名護市の主会場「万国津梁館(ばんこくしんりょうかん)」など主要施設の視察を念入りに行った。だが、その1週間後に倒れ、小渕が再び沖縄の地を踏むことはなかった。=敬称略。(この連載は楠城泰介、豊田真由美、力武崇樹、佐々木美恵が担当しました 産經新聞)

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