エジソンへの質問 「どうすれば成功できますか?」 | 東京リーシングと土地活用戦記

東京リーシングと土地活用戦記

ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。

$東京リーシングと土地活用戦記



          エジソンへの質問
         「どうすれば成功できますか?」



                浜田和幸(国際未来科学研究所代表)

                『致知』2004年7月号
                 特集「熱意・誠意・創意」より

└─────────────────────────────────┘


1914年12月、エジソンが67歳のときのことです。
災難が彼を襲います。

ウエスト・オレンジにあった研究施設が火事になってしまったのです。
連絡を聞いて駆けつけ、実験道具や資料など重要な物を持ち出そうと
陣頭指揮を執りましたが、時すでに遅し。

施設はすべて焼け落ち、当時の金額で500万ドル近い損害を
被ってしまいました。

目の前で、いままで自分が築いてきたものが
すべて燃える光景を眺めながら、エジソンがしたこと。

それは家族を呼び、こう告げることでした。


「こんなに大きな花火大会はまず見られない。
 とにかく楽しめ」


そして集まった記者たちに、



「自分はまだ67歳でしかない。
 明日からさっそくゼロからやり直すつもりだ。



 いままで以上に立派な研究施設をつくればいいのだ。


 意気消沈している暇はない」




と、平然と言ってのけたのです。

エジソンは、常識だけでなく、
時間という概念に縛られることもたいへん嫌っていました。

普通、我々は「1日24時間」という時間の中で生活しています。
しかしエジソンに言わせれば、1日が24時間であるというのは、
人間が人工的につくったもの。

自分が時間の主人公になれば、1日を36時間でも48時間でも、
自分の好きなように使えるはずだ、というのです。

エジソンの工場の壁には、長針も短針もない
大きな時計が掛けられていました。
ある日、友人の自動車王フォードが


「針がなければ、時計の意味がないのでは」


と訊ねると、


「そうじやない。時間というものは、自分でコントロールすべきもの。
 時計のような出来合いのバロメーターに左右されているようでは何もできない。
 疲れたと思えば、その場で休めばいい。

 仕事が完成するまでが昼間だ。
 自分の体にあったリズム、
 これを自分でコントロールすることが大切だ」



と答えたといいます。

驚異的なひらめきをつかんで形にし、「天才」と賞されることの多い
エジソンですが、決して努力を軽んじていたわけではなく、
むしろその逆でした。


世界中から寄せられる「どうすれば成功できるか」という問いに、
エジソン
は、


「野心、


 常識にとらわれない創造力、


 昼夜を問わず働く意志」




3要素を挙げています。

1日18時間は働くことにしていたといいますから、
人の2、3倍は濃密な仕事人生を歩んできた自負があったのでしょう。


ですから、エジソンにとっては「まだ67歳」。
まだまだ大きな仕事をするのには十分な時間がある、
という発想だったのです。

それどころか、


「肉体は魂の仮の宿り木。
 滅びれば次の宿り先に移動する」


という死生観を持ち、それを証明するための実験を重ねていたくらいですから、
「死」という概念すら超え、次なる成功に野心を燃やしていたのです。


すべての常識を超えて自分で新しい未来を見据え、
創造力を発揮して目の前の「壁」を超える。

天才とはいえ、その裏に、常に前向きに歩みつづけようとする
強い意志とひたむきな努力があったことは、言うまでもないのです。

トーマス・エジソン
トーマス・アルバ・エジソン
Thomas Alva Edison

生誕 1847年2月11日
オハイオ州ミラン (en)
死没 1931年10月18日(満84歳没)
ニュージャージー州ウェストオレンジ (en)
国籍 アメリカ合衆国
別名 発明王、メンロパークの魔術師、訴訟王、映画の父
教育 小学校退学
職業 発明家、起業家
著名な実績 家電製品の改良・発明とそれに伴う電力産業の事業化
宗教 理神論者
配偶者 メアリー・スティルウェル(1871 - 1884)
ミナ・ミラー (1886 - 1931)
子供 チャールズ
テオドール (en)
親 父:サミュエル・オグデン・エジソン・ジュニア
母:ナンシー・マシューズ・エリオット

「発明王」の名を持つ。研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパーク(メンロー・パークとも表記する)にちなんで、「メンロパークの魔術師」 (The Wizard of Menlo Park) とも呼ばれた。リュミエール兄弟と並んで映画の父とも言われている。ゼネラル・エレクトリック (GE) の雇われ社長でもあった。このほか、自らの発明の権利を守るため訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」の異名も持つ。一方でジョルジュ・メリエスの傑作『月世界旅行』を公開前に無断で複製しアメリカ中の映画館に売りつけ巨額の富を得たという事実も存在する。
日本では長らく「エジソン」という表記が定着していたが、近年は "di" という綴りを意識して「エディソン」「エディスン」と表記する場合もある。幼少期の通称は「アル」。
「電球を発明した」人物として有名。実際には電球の原理はエジソン以前にすでに知られており、エジソンの独創ではない。電球などの家電を含めて発電から送電までを含む電力の事業化に成功したことが最も大きな功績である。一方、交流送電の優位点を理解できずウェスティングハウスとの間の電流戦争に敗北したこと、飛行機(厳密にはヘリコプター)を作ることを考えながらも安全面の問題から断念せざるを得ず、ライト兄弟に先を越されたなど失敗も少なくはない。

経歴 [編集]

出生 [編集]
エジソンは1847年2月11日にオハイオ州ミランで父サミュエル・オグデンJr.(1804年8月16日 - 1896年、オランダ人系)と母ナンシー・エリオット(1810年1月4日 - 1871年、スコットランド人系)の間に生まれた[注釈 2]。 エジソンは彼らの7人の子供の内7番目の子供で、7歳の時に家族はミシガン州ポートヒューロンに移った。
少年時代 [編集]
小学校に入学するも、教師と馬が合わず中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、英語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「なぜ?」を連発していたという。
その様な好奇心は学校内に止まらず、「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やしていたところ、自宅の納屋を全焼させてしまったこともあった。これらが重なった挙句、最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入学からわずか3ヶ月で退学を勧められたという。
学校だけではなく、父親からも見放されたエジソンは、基本的な勉強は小学校の教師であった母親に教わった[注釈 3]。 母親は教育熱心だったらしく、元々好奇心が旺盛だったエジソンに対して、家の地下室に様々な化学薬品を揃え、エジソン自身もその地下室で科学実験に没頭していたという。
発明王 [編集]


1878年のエジソン
このような少年時代を送ったが、母親も手伝いその後発明を複数行い、1877年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。後年の伝記ではこれを「天才の集合」 (Collective Genius) と呼んでいる。
研究所で電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。なかでも注力したのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。彼は白熱電球の名称をゾロアスター教の光と英知の神、アフラ・マズダーから引用し、「マズダ」と名付けている[1]。この特許の有効性について訴訟が起こり、裁判で特許 (番号223, 898) が有効と判定されるまでに時間がかかった。一方で白熱電球の売り込みのための合弁会社を成立。直流の電力を供給するシステムを確立させる。
1887年にウェストオレンジ研究室に移る。ここでは動画撮影機キネトグラフを発明した。実は彼の部下であるウィリアム・ディッカーソンの発明。
晩年 [編集]
鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営からは身を引くが、研究所に篭り死者との交信の実験を続ける。1914年12月に研究所が火事で全焼し約200万ドルの損害を蒙ったが、臆せずその後も死者との交信についての研究を続けた。1931年10月18日、84歳でその生涯を終えた。また、ゴールデンロッド(goldenrod 和名:セイタカアワダチソウ)からゴムを取るのに成功したとも言われている。

家族と友人 [編集]

エジソンは生涯に2度結婚している。1871年12月25日に、自社の子会社の従業員であった16歳のメアリー・スティルウェルと最初の結婚をした。メアリーとの間には1873年にマリオン・エステル・エジソン、1876年にトーマス・アルバ・エジソン・ジュニア、1878年にウィリアム・レスリー・エジソンの3人の子供が生まれたが、多忙だったエジソンがあまり家に寄り付かなかったこともあってメアリーは引きこもりがちになり、次第に体調を崩していって1884年8月9日に29歳でこの世を去った[2]。
メアリーの死後、エジソンは同じく富裕な発明家・実業家であったルイス・ミラーの娘である20歳のマイナ・ミラーと1886年2月24日にオハイオ州のアクロンで結婚した。マイナとの間には、1888年にマドレーン・エジソン、1890年にはエジソン死後にエジソンの事業を引き継ぐとともに政治家となってニュージャージー州知事やアメリカ海軍長官代行を務めたチャールズ・エジソン、1898年には科学者となったセオドア・エジソンの3人の子供をもうけている。マイナはエジソンとの死別したのち、1947年に亡くなった[3]。
自動車王のヘンリー・フォードとは生涯の友人であった。この二人がはじめて会ったのは1896年のことであり、当時はフォードはエジソン電灯会社の社員であった。フォードが発明したばかりのガソリン自動車の説明をすると、エジソンはテーブルを拳で叩いて喜び、フォードを励ました[4]。その後、1912年にフォードがエジソンに業務提携を持ちかけ、提携自体は上手くいかなかったものの友情は続いた。フォードは1967年、エジソンは1969年に、それぞれ自動車殿堂入りをしている。

2010年2月8日更新 記者おとなっち  携帯版はこちら


エジソンの名言!「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」は誤訳だった

エジソンといえば誰もが認める発明家です。蓄音機や白熱電球の実用化で有名になった企業家でもあります。

そんな彼が残した有名な言葉がこれです。
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である。」

一度は聞いたことのあるこの名言!
しかし・・・

エジソンが言いたかったのは
1%のひらめきがあれば、99パーセントの無駄な努力をしなくてもよい」」

つまり、真逆の事
を言っていたのです。


後年「エジソン」はこんな事をいったそうです。「記者によって努力を強調する文章に書きかえられてしまった。」と・・

会見の席でエジソンに質問をした記者がいました。

記者
「エジソンさん。ひらめきについてどうおもいますか?」

エジソンは

「生またばかりの赤ちゃんの頭脳にはリトルピープル(地球外生物)が住みやすい構造になっている。このリトルピープルが人間をコントロールしているのだが、大人になるとこの声が聞こえなくなるのだ。

しかし、この1%のひらめき(リトルピープルの教え)を感じとることができれば、99パーセントの無駄な努力をしなくとも大丈夫なのさ。」


と、理解不能な答えが返ってきました。
しかし、記者は努力が大切なんだ!と解釈したために、この名言が誕生したのです。

そうだったのか~。エジソンさんは努力よりも充実した心を持っていれば、いいアイデが浮かぶと言いたかったのかも知れませんね。