『写真版 東京大空襲の記録』は、広島、長崎への原爆投下にも匹敵する民間人への無差別爆撃によって、一晩で10万人が殺された東京大空襲の惨劇を克明に描いた本です。
当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏が撮影した現場写真は、息を呑むほどの衝撃を私たちに与え、戦争の凄惨さを今に伝えています。
石川光陽氏がGHQの提出命令を拒否してこの数々の写真を守り続けたことが、本書の発行を可能にしたのです。
早乙女勝元
1932年、東京生まれ。12歳で東京大空襲を経験。ルポルタージュ作品『東京大空襲』がベストセラーとなる。2002年、江東区北砂に「東京大空襲・戦災資料センター」(http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/)をオープン。
歴代のアメリカ政府は、広島・長崎に原爆を落としただけでなくし、今日に至るまで「原爆投下によって戦争終結が早まり、米軍の犠牲者が少なくなった」と開き直ってきました。
ブッシュ政権の進める戦争政策に無批判に追随する前に、アメリカと日本の歴史的関係性を今一度検証していく必要があるのではないでしょうか?
その一つに、東京大空襲の惨劇があります。
130回にも及んだ東京への空襲の中でも、1945年3月10日に行われたものは、その被害の甚大さから言って、人類史上にも残るホロコースト(大量虐殺)でした。米軍は325機のB29爆撃機を動員して約36万発の焼夷弾を東京・下町の密集地帯に投下し、荒れ狂う炎はあっと言う間に町中を覆い尽くし、老若男女を問わず、わずか2時間半で10万人以上が犠牲となったのです。米軍はまず、町を囲む円を描くように焼夷弾を投下し、炎の壁を作って逃げられないようにした上で、中にいた人々を焼き尽くしたと言われています。
当時、学徒兵として、10万人の遺体の処理作業についていた須田卓雄さんは、1970年12月29日付朝日新聞で自らの体験を発表されました。それをご紹介します。この文書は、『写真版 東京大空襲の記録』(新潮社)のP113でも紹介されています。
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は大規模であった。通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。民間人にも大きな被害を与えた。
花があったら
昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、
私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、
無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、
初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、
さして驚くこともなくなっていた。
午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。
頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、
倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、
その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。
着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。
その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。
母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。
どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、
その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。
赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。
わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。
一人がそっとその場をはなれ、
地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、
母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。
若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、
苦痛の表情は見られなかった。
これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。
だれかがいった。
「花があったらなあ――」
あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
この東京大空襲のみならず、
全国諸都市の焦土作戦の直接指揮をとってカーチス・E・ルメー将軍は、
1964年に天皇と日本政府から勲一等旭日大綬章を与えられたそうです。
理由は、「日本の自衛隊の育成に貢献した」とのこと。
戦争で10万人の日本人を殺しても、日本政府から勲章がもらえる・・・
戦争と国家の本当の姿をこれほど端的に示す事実はないでしょう。
『写真版 東京大空襲の記録』をぜひ一度お読みください。
東京大空襲・戦災資料センターを訪れてみるのもお薦めです。詳細は以下のサイトをご覧ください。
http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/


対日焦土化作戦の立案 [編集] ウェキペディア
第21爆撃集団司令官時代、ルメイは対日作戦として、日本の都市の無差別戦略爆撃を立案した。そもそも、第21爆撃集団への異動の理由は、前任者であるヘイウッド・ハンセル准将の精密爆撃作戦が効果が薄いと判断し、航空隊司令官ヘンリー・アーノルド大将自らの指示により行われたことによる。この従来の方法では、高高度からの爆撃の標的破壊率が5%に過ぎなかった[要出典]。また、青木慶一によれば、アーノルドの参謀総長を務めていたローリス・ノースタッド少将も民家焼夷攻撃論者であった。1945年1月3日の名古屋空襲ではノースタッドは無差別焼夷弾攻撃を命じたにも拘らず、ハンセルは従来の工場攻撃に重点を置き、焼夷弾爆撃は一部の機体に試行的に実施させたに過ぎなかった。このことが、ルメイへの交替を決心させる契機となったという。ルメイも当初は工場爆撃を主とする考え方に与する立場であったが、ノースタッドの命令を忠実に実行する意思は持っていた[3]。
この時ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、次の4点である。
高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする。
爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。
搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す。
攻撃は夜間とする。
さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。
またルメイの「低く飛べ」と言う命令に兵士が「危ないですよ」と言うと、ルメイは葉巻を真っ二つに噛み千切り、「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と怒鳴ったという。
このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。標的となった日本の都市は、軍需工場、民間住宅地の区別なく徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市[4]までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」と渾名された。
東日本大震災の犠牲者行方不明者は2万人です。
一晩だけで10万人、東京皆殺しのカーチス・E・ルメー将軍は、
1964年に天皇と日本政府から
勲一等旭日大綬章を与えられた
どんな思いだったのだろうか??
日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)
