The Pacific DVD Trailer #1 (HBO)
The Pacific: Battle of Peleliu
製作費200億円! 製作総指揮にトム・ハンクスとスティーヴン・スピルバーグ
『THE PACIFIC / ザ・パシフィック』 は、製作総指揮にトム・ハンクス、スティーヴン・スピルバーグ、ゲーリー・ゲーツマンというテレビシリーズとしてエミー賞とゴールデン・グローブ賞を獲得した 『バンド・オブ・ブラザース』 を手がけた3人が再びタッグを組んで作り上げた作品。TVドラマでは桁外れの総製作費200億円を投じ、戦争の現実を浮き彫りにし、「戦争」 が人間から何を奪うかを真に問う。
総勢800人以上のスタッフが戦場のセット90以上も作成。 セリフのある登場人物だけで138人、エキストラはのべ2万6,000人以上が参加。
トム・ハンクス からのメッセージ
本作は、欧州を舞台としたこれまでの戦争物とはまったく異なる観点から戦争を描いた作品だ。欧州戦とそれに伴う栄光については、誰もがよく知っている。だが、太平洋戦で舞台となったのは遠く海を隔てた小さな島々。米兵たちはその名を発音することすらできないくらいなじみの薄い地域へ赴き、野蛮で残忍な戦闘を経験した。欧州という土地は、たとえその土地を訪れたことがない兵士達にとっても、多少はなじみのある場所だったが、太平洋という地域は、謎に包まれ、絶対的に未知な土地であり、彼らが行ったこともなければ、想像すらできない場所だった。
我々がテーマとして取り上げたのは“彼らがいかに戦ったか”ではないし、“なぜ戦ったか”でもない。我々が描きたかったのは戦争が彼らに与えた潜在的な影響だ。あれだけの経験をしながら、どうやって1946年に帰還し、その後の人生を続けることができたのか。それは彼らにとって恐ろしく難しいことだったに違いない。
スティーヴン・スピルバーグ からのメッセージ
『THE PACIFIC / ザ・パシフィック』 は人間の魂についての物語だ。崩壊する人間の心についての物語であり、また、兵士たち一人一人が、戦いの中で目にしたことや自分がやったことから、自分自身を救うために内面と戦う物語でもある。この恐ろしい4年間に渡る戦争が終わった後、わずかにでもまだ残っているであろう人間性のかけらを拾い集めようと、もがく兵士たちの姿を描いている。また彼らがどのように帰国し、人生を再び歩むことができたのか、そして我々の世代、つまりベビーブーマーを作ることができたのか、についても伝えている。この世の地獄を見た彼らが、こういった物語をどのように子供たちに伝えたか、あるいは伝えられなかったかも描いている。
第二次世界大戦の太平洋戦線とは?
『THE PACIFIC / ザ・パシフィック』 では、5つの島での戦いに焦点を当てている。3人が所属する第1海兵師団の戦闘は、広大な太平洋の全域に及んだ。熱帯地域での消耗戦は、勝者にすら大きなダメージを与えたという。
ガダルカナル [ 1942年8月7日 ]
南太平洋における日本軍の勢力範囲拡大を阻むため、アメリカ軍は第二次世界大戦で初めての対日反抗作戦に乗り出し、1942年8月7日、第1海兵師団をソロモン諸島のガダルカナル島に上陸させた。水際での日本軍の反撃によって海兵隊は包囲され、空と海からの絶え間ない爆撃と、容赦なく繰り返される地上攻撃にさらされた。太平洋戦争の転換点となったこの上陸作戦は、アメリカの参戦決意を世界に知らしめた。またこの戦いで、日本が降伏なき殲滅戦を考えていることをアメリカは知った。1943年2月の作戦終了までに、約7,000人のアメリカ兵と3万人近くの日本兵がガダルカナルの陸海空で死傷した。
グロスター岬 [ 1943年12月26日 ]
第1海兵師団は1943年12月26日、ニューブリテン島グロスター岬に上陸。ラバウルの日本軍をより孤立させ、ダグラス・マッカーサー将軍のニューギニア北岸進攻を支援することが目的だった。短期間ながらも激しい戦闘の末、日本軍は大量の傷病兵を残して西ニューブリテンから撤退した。1944年4月から 5月にかけて第1海兵師団が撤退するまで、絶え間ない豪雨で兵士達はずぶ濡れ、泥まみれになり、悲惨な状況に陥った。第1海兵師団は310人の戦死者、1,083人の戦傷者を出した。日本軍の戦死者は3,868人、捕虜は420人だった。
ペリリュー [ 1944年9月15日 ]
1944年9月15日、ダグラス・マッカーサー将軍のフィリピン反抗作戦のための前進基地確保のため、第1海兵師団はパラオ諸島のペリリュー島に上陸し、飛行場を奪取。1万500人の兵からなる日本軍は新たな戦略のもと、珊瑚礁でできた小島に蜂の巣状の洞窟陣地を築き消耗戦を展開。37度を超える暑さの中、戦闘は長引き多くの死傷者が出たが、ペリリュー戦はフィリピン反抗作戦や欧州戦の影に隠れ、アメリカ人には比較的知られることのなかった戦いである。海兵隊はこの戦いで1,336人の戦死者と、5,450人の戦傷者を出した。陸軍部隊が作戦を終わらせる頃には、生き残った日本兵はわずか300人だったと言われる。飛行場は想定された役割を果たすことなく、戦後、歴史家や軍事専門家のあいだでは米軍のペリリュー島攻略の軍事的意義を疑問視する意見が大勢を占めている。
硫黄島 [ 1945年2月19日 ]
海兵隊は1945年2月19日、硫黄島に上陸。護衛戦闘機の基地を確保し、マリアナ諸島に拠点を置くB-29が窮地に陥った時の避難所とすることがアメリカの目的であった。2万2,000人以上からなる日本の守備隊は、海兵隊が上陸した海岸に激しい砲撃を浴びせた。最も勢いある抵抗は硫黄島北端にて行われた。海兵隊員が摺鉢山に星条旗を立てる有名な写真は2月23日に撮影されたが、戦闘が正式に終わったのは3月26日だった。アメリカ軍の損害は戦死者約 6913人を含む約2万5,000人。日本兵は2万人以上が死亡した。米軍の死傷者数が日本軍のそれを上回る稀有な戦いとなった。
沖縄 [ 1945年4月1日 ]
アメリカの司令官たちは、その後に予定されていた日本本土攻略における航空基地、海軍基地を確保するため、本土からわずか500キロほどの沖縄を標的にした。日本軍は沖縄本島南部の壕から抵抗し、特攻隊は激しい攻撃を米国艦隊に浴びせかけた。1945年4月1日の上陸後、アメリカ軍の攻撃は5月の大雨で足止めされた。6月21日の正式な作戦終了までに、アメリカ軍は1万2,000人を超える戦死者と3万人以上の戦傷者を出した。日本兵は9万人以上が戦死した。沖縄の民間人の死者は15万人と推定されている。両国は沖縄戦を本土決戦の前哨戦としてとらえていた。
今、最も観たい映画、
製作費200億円『THE PACIFIC / ザ・パシフィック』!!
65年前の、日米戦、血みどろの戦い・・・
今回の震災では,友達作戦として・・
40000人の兵士達が救出に駆けつけてくれました。
