気概のある奴 「民は国の本、吏は民の雇」 河井継之助!! | 東京リーシングと土地活用戦記

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ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。

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河井継之助が残した言葉(人生について)
河井継之助が残してくれた言葉を綴ります。河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~

人生で迷った時、継之助の言葉が、そこに込められた継之助の想いが、支えてくれます。

二度や三度は水っ溜りの中位へは放り込まれるかも知れないが、己を殺す程の気概の ある奴は一匹も無い」と、相顧みて哄笑せりという。 (河井継之助傳pp.126) 藩政改革の際に良運さんにかけられた言葉「随分険呑だから要心おし」に対する一言



◆天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。
牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の血や肉をくらいつくすかどちらかとなれ。

さい‐ろう 〔‐ラウ〕 【×豺×狼】

1 やまいぬとおおかみ。
2 残酷で欲深い人。むごたらしいことをする人。
出典:小学館 この辞書の凡例を見る

◆人間というものは、棺桶の中に入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中へ埋められて、それからの心でなければ何の役にも立たぬ。


◆人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四字でございます。
そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの。
拙者が今大役を断ったのは退いて野におる、ということで自ら決すべきことでござる。
天地に恥ずるところなし。


◆人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾が群がるように前後左右に取り囲んでくる。
大は天下のことから、小は嫁姑のことに至るまですべて矛盾に満ちている。
この矛盾に、即決対処できる人間になるのが、俺の学問の道だ。


◆何でもよい、一つ上手であればよいものだ。
煙草延しでも、上手でだければ名人といわれる。
これからは何か一つ覚えて居らねばならぬ。


◆一年も居馴れてしまえば、ちょうど冬の寝床のように自分の体温のぬくもりが江戸という寝床に伝わってしまう。
そうなれば住みやすくはあるが、物を考えなくなる。
寝床は冷ややかなほうがいい。


◆不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ。




[参考文献]

今泉鐸次郎 「河井継之助伝」 目黒書店
安藤英男 「河井継之助」 新人物往来社
安藤英男 「定本 河井継之助」 白川書院
石原和昌 「良知の人 河井継之助」 日本経済評論社
月刊 歴史街道 PHP研究所


河井継之助が残した言葉(日常・学問について)
河井継之助が残してくれた言葉を綴ります。

人生で迷った時、継之助の言葉が、そこに込められた継之助の想いが、支えてくれます。



◆一忍可以支百勇 一静可以制百動(一忍を以って百勇を支うべく 一静を以って百動を制すべし)


◆民者国之本 吏者民之雇(民は国の本 吏は民の雇い)


◆民を安ずるは恩威にあり。
無恩の威と無威の恩は、二つながら無益、基本は公と明とにあり。
公けなれば人怨まず、明らかなれば人欺かず、この心を以て、善と悪とを見分け、賞と罰とを行ふときは、何事かならざるなし。
有才の人、徳なければ人服さず、有徳者も才なければ事立たず。


◆相撲の見どころは立合いである。
双方とも充分に仕切って、持てる力を存分に出しあう。
仕切が充分でないと、持てる力も発揮できない。
仕切のコツは、相手が仕切に入るのをたしかめてから、こちらも仕切って、一瞬早く立つ。
つまり、相手より遅く仕切って、早く立つ。
この呼吸が大事なところだ。


◆(月代というのは)眼と心とを一つにして、一遍にズッと剃るものだ。
心と眼と手さえ一致すれば傷などつけることがない。
これは剃刀ばかりでなく、何事もこの秘伝を忘れてはならぬ。


◆実に火事ほど恐ろしいものはない。
他人から来る火は仕方がないが、自分から出した火は取り返しがつかぬ。


◆いま柳原の土手を通って帰ってきたが、立派な武士が通るところへ横合いから糞をかついで来た奴が突き当たって、刀の鞘へ糞をかけられた。
あたり前なら手討ちにしなければならないのだが、全く過ちだという場合に、殺さずに武士の体面を保つには、どうしたらよかろうか。


◆世間には「資治通鑑」を三カ月で読んだとか、「二十一史」を半年に読んだなどと自慢する者があるが、そんな者の気が知れない。
会心の文字は、何度でも読むのがいい。




[参考文献]

今泉鐸次郎 「河井継之助伝」 目黒書店
安藤英男 「河井継之助」 新人物往来社
安藤英男 「定本 河井継之助」 白川書院
石原和昌 「良知の人 河井継之助」 日本経済評論社
月刊 歴史街道 PHP研究所


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2009-08-29
河井継之助を訪ねる旅
歴史 | 22:00

8月26~28日、南会津の只見、小千谷、長岡などを巡ってきました。旅のテーマは、幕末の越後長岡藩・河井継之助の足跡を訪ねるということ。司馬遼太郎の小説『峠』の主人公です。

 まず、継之助終焉の地、会津塩沢を訪ね、記念館を訪問。ローカル線只見線で会津塩沢に向かいましたが、最近只見線は鉄道ファンに人気があるようで、結構な乗客数でした。会津塩沢駅は無人駅で回りには何もないところ。塩沢は、今は静かに水をたたえる湖畔の地です。駅から500mくらいの処に記念館があり、終焉の家は、既にダムの水底に沈んでいますが、記念館に移築されています。

 その晩は、只見の旅館に泊まりましたが、旅館の主人が継之助ファンだったようで、継之助の好物といわれる桜飯(刻んだ味噌大根をごはんに混ぜる)をいただきました。

 翌日は、小千谷に向かい、官軍の軍監・岩村精一郎との談判の場になった慈眼寺へ。ここは、中越地震で大変な被害にあったそうです。談判の場は立派に復元されていました。さらに、長岡に向かい、長岡市内の河井継之助旧邸跡に立つ記念館を訪問。長岡は、山本五十六などの人材を輩出しており、記念公園などを見物。その晩は、やはり地震で壊滅的な打撃に会い、復興した蓬平温泉に泊。

 28日は、長岡郊外の悠久山公園に行き、資料館や継之助の碑などを見て、駅付近に戻って如是蔵博物館にも行き、最後は継之助ら北越戊辰戦争に倒れた長岡藩士が眠る栄涼寺を訪ねて、継之助を訪ねる旅は終了。

 長い間、行きたかった旅を実現できて、良かった。強い感慨を覚えた旅でした。

上写真:ガトリング砲は、当時日本に3台しかなく、そのうち2台が長岡藩の河井が購入した。

下写真:『民は国の本、吏は民の雇』 西洋の言葉を河井継之助が書いた軸。公務員は、心しないと。

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藩政の主導者へ [ウェキペディア]

京都詰・江戸詰に任命 [編集]
文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。
だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとるかたちで公用人を辞し、帰藩した。
郡奉行就任と藩政改革の開始 [編集]
しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。
越後長岡藩慶応改革 [編集]
藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知すると云う門閥の平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。詳細は越後長岡藩の慶応改革を参照のこと。
明治維新への対応 [編集]

戊辰戦争の開始 [編集]
慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。
そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。
藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にスネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、そのうち2つを継之助が持っていた。
一藩武装中立 [編集]
新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥出身の家老首座連綿・稲垣平助、長岡藩で藩主・牧野氏の先祖と兄弟分の契りを結んでいたとされる重臣・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。
こうした中で継之助は、まず自説を曲げずに継之助にことごとく刃向かう反河井派の急先鋒・安田鉚蔵を藩命として永蟄居となした。そして、恭順派の拠点となっていた長岡藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて武装中立を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした[3]。
小千谷談判の決裂 [編集]
5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、成り行きで新政府軍の軍監になった岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。
継之助は長州の山縣狂介か薩摩の黒田了介を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた(岩村も後に自伝で、この対応が不適切だったことを認めている)。一方新政府軍にとっても、岩村が継之助を捕縛せずにそのまま帰してしまったのが大失敗だった。これにより長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する[4]。
北越戦争の開戦 [編集]
長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。
継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた[5]。
その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であった。
ところがその奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。
これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。
河井の最期 [編集]
継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。
峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時すでに継之助の傷は手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。
継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な状態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、破傷風[6]により死去した。享年42。
継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。
戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新知100石を与えて河井の家族を扶養させた。
明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。

「武士道」にある七つの徳目をあげると、「義」、「勇」、「仁」、「礼」、「誠」、「名誉」、「忠義」である。

「義」:「正しい道」のこと。武士にとって最も大事とされるのが「義」である。武士は、「義」のために死をも恐れない覚悟をする。

「勇」:「義」を実践するために必要とされる強さが「勇」である。

「仁」:人の上に立つ者として最も必要な資質が「仁」の精神である。「仁」は、「愛」、「寛容」、「同情」、「憐れみの情」など、弱者や目下の者に対する配慮と優しさを表す。

「礼」:相手への敬意や品格を重んじる表現である。礼法の一番の目的は、精神を陶冶することである。

「誠」:「言が成る」という表意文字の成り立ちから考えても、武士にとっての言葉とは、それほど重みが必要であった。「武士に二言は無い」とは、一度言った言葉の重みに責任を持つことである。正直、誠実にも通ずる。

「忠義」:主君や公のためにすべてを捧げる精神である。忠義をまっとうすることで「名誉」を得るという考え方もある。

「名誉」:「名」「体面」「外聞」を重んじる精神である。反対に、それらを汚すことを「恥」という。武士は、「恥ずかしいこと」、「笑われること」、「体面を汚されること」を何よりも嫌う。武士は、「名誉」を守るために死をも覚悟する。



気概のある奴 

「民は国の本、吏は民の雇」 河井継之助!!

日本の政治家に、今、ほしい!!