ある日、わが町、多摩センター!! 400年前の、富沢家の家!! | 東京リーシングと土地活用戦記

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わが町、多摩センターです!!

駅南口にある、中央公園では、大きな池があって、

みんな、のんびりーーー

そして、そこに、

新撰組、近藤勇と親交のあった、地元名主、連光寺、

400年前の、富沢家の家を、連光寺から、移築、保存しています。

新撰組は、多摩の出身ですからね。




富澤家
多摩市連光寺


□ 何処の地域でも同様かと思えるが、江戸時代の村の名主層は戦国時代に敗北して土着・帰農した 者が多い。多摩川流域向いの丘の連光寺の富澤家も、駿河国今川家の浪人たちが土着したものである。
□ 駿河浪人が何故この地に居着いたのか、富澤家の文書がある。

□ 富沢家の先祖は秩父平氏畠山氏の流れであったが、戦国時代、武蔵国を制圧した小田原北条氏に 敗れ、駿河国今川氏に内通してその旗下にはいった。八王子城主北条氏照支配のとき、今川義元の 家臣富澤修理政本なる人が、北条領に進出を企て、武蔵・甲斐国の境の子仏峠から責め入って日 野・府中の分梅の線を確保し、北条方の軍事基地となっていた赤坂馬飼場を掠奪した。この東側の 小沢城や小沢河原は、北条氏照十六歳の初陣を飾った戦場である。北条氏の武蔵国進出の足がかりの 場であったから、鎌倉街道関戸の渡し付近でもあり、陣屋を置いて多摩川沿岸の守備陣地としたので あろう。近くに平安時代からの霞の関所もあり、北条氏照はここに六斎市を開いていた。富澤修理の 役目は北条氏の駿河侵攻を阻止するため、この地を略取して、その背後をおびやかす戦略ゲリラ部隊 であった。さらに対岸の分梅河原へ渡ろうとしたが、多摩川が自然の要害となって遂に攻略が ならなかった。しかもその対戦中、駿河国主の今川義元は織田信長の急襲にあい、討死したため駿河 勢は総崩れとなり、富澤ゲリラ部隊の任務も終わったのであった。

□ かくして富澤修理は戦国浪人となり、この地に土着したらしいが、この時期の文書が簡略で詳細は 分からない。しかし、北条氏が滅んで徳川家康が入国すると、膨大な富澤家文書の中に慶長検地帳 があるから、既に徳川領の名主の立場にあったらしいことが分かる。富澤家文書の全ては国立文書 館に寄贈された。

□ 明治十四年二月、明治天皇は八王子の御殿峠に出て一日兎狩り楽しんだ。現在の東京環状道路、国道 16号線を八王子から神奈川県相模原市へぬける途中で、多摩の横山の奥地にあたる。あまりに楽し かったことから急遽もう一日のばし、多摩川流域の向い丘の連光寺で再び兎狩りが催された。そのと き小休息所に使われたのが富澤家であった。その記念碑が現在も同家の前に建っている。近くの 乞田川を渡る橋は行幸橋と名付けられ、多摩川を見渡せる向い丘の頂上に聖蹟記念館が建てられた。 小休息所になった富澤家の御座所の柱や天井板などが真黒く煤染められてあることから、この家は 何年頃のものか御下問があって、当主は慶長頃と答えたという。つまり同家の母屋は慶長十五年(1610) 棟上以来、四百年近くもそのまま使われてきたことになる。社寺仏閣ならまだしも、一民家としては 希なことである。

□ ところが今回、非公開を承知で撮影に訪れたら、門前に「明治天皇御小休所」の石碑はあるものの、 茅葺屋根の姿は消えて洋館に建替えられていた。史跡に指定されているとはいえ、直接尋ねる訳にもい かず、市役所へ問合わせてみると、富澤家から寄付されて多摩センター駅前の中央公園内に解体・ 復元保存し、公開されていた。

□ 保存管理上のためか茅葺屋根は銅板葺に替えられたが、上層農民の典型的な民家が見られる。

富沢家に近藤勇の使った鉄扇が保存されている。
□ 当時の当主富澤政恕と近藤勇とは天然理心流の同門であったばかりでなく、勇が調布上石原村の 宮川家から江戸牛込の試衛館道場主近藤島崎周助邦武と養子縁組した際、その仲人役が政恕であった。 調布から出て鎌倉街道を小野路の小島家へ行く途中の関戸の渡しを渡った処に富澤家がある。 近藤周助邦武は小野路の先の現在は町田市の小山村三ツ目の島崎家の出身であった。$東京ふるさと多摩党・リーシングと土地活用戦記


□勇が京都で新選組局長として活動していたとき、たまたま政恕は連光寺知行主の旗本天野孫左衛門と 京都へ行って近藤を訪問した。二人を迎えた勇のもてなしは大変なもので、帰府の見送りには一隊 を添えて伏見まで出て決別を惜しみ、そのとき記念に贈られた鉄扇であるという。扇面には「勢欲 飛 宮闕衛士近藤書」とある。宮闕とは禁中・宮城のことである。「幕臣」としての近藤勇は、 幕府が最後の拠り所とした公武合体論をその思想的根拠として、討幕論者を容赦なく取り締ってい たことを、その扇面は語っている。坂東千年王国