歴史っておもしろい!! 中世の水軍 でかい、安宅船!! | 東京リーシングと土地活用戦記

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とても豪快に約四百年前の日本の戦国時代を駆け抜けた向井水軍について良く書かれた記事がありました。

 天正8年の沼津沖の海戦(千本浜沖の戦い、武田勝頼vs北条氏政)から、天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めに至るまでの伊豆での海戦の数々。主人公は向井兵庫正綱。伊勢の国出身の武田水軍の若将であったのを、数々の恩讐を乗り越えて徳川家康の家臣となった人で、この本では北条水軍の敵であった人ですが、この小説ではやたらとかっこいい。この人がいなかったら北条水軍が東国最強であったのを、彼一人でことごとくくつがえして伊豆水軍滅亡まで持って行ってしまう。


「海では、どんな船を使って、どんな風に戦うんだろう?」という疑問点を、とても豪快で力強い筆致で巧みに描いてくれています。海での戦争は、とても難しく、豪快です。帆と風の操り方と運が海上での戦いのすべてを左右しますが、海賊たちはその巨大な船を使って、陸上の敵たちにバンバン大砲と鉄砲を撃ち込んで、巧みに陸上での味方を援護するのです。
 安宅船」と「関船」と「小早」の違いは「大きさの違い」としか分からなかったのですが、その3種の別個の運用がとても重要であったということも分かりました。
 天正7年に北条氏直が、重須(おむす、おもす)の湊(=沼津長浜城)で10艘の安宅船を造らせている、周辺諸国にとって怖ろしい出来事だった。
 天正10年に武田氏が滅亡した時点で、向井正綱率いる向井水軍は駿河湾でそこそこの勢力を築き上げているのですが、そのときの所持戦力が、北条から奪った安宅船一隻、関船5艘。

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<天正8年の海戦の直前の重須港の船団>
安宅船(五十丁櫓)、十艘
関船、五十艘
小早、十余艘

<元亀元年の江尻港の武田水軍(甲陽軍鑑)>
間宮武兵衛、関船10
間宮造酒丞、関船5
小浜景隆(海賊奉行)、安宅船1、小早15
向井伊兵衛、関船5
伊丹大隅守(今川家の元海賊奉行)、関船5
土屋豊前守(岡部水軍、海賊奉行)、関船12、兵50旗

<天正18年、下田城攻めでの各兵団>
九鬼嘉隆、鉄甲船
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、兵1500
加藤嘉明、兵600
管達長、兵230
脇坂安治、兵1300
来島通総、兵500
長宗我部元親 旗艦・大黒丸(200丁櫓)、兵2500
羽柴秀長、兵1500
宇喜多秀家、兵1000
毛利輝元、兵5000
向井正綱、安宅3、関船20、小早12

向井水軍の「むの字」徳川の安宅船


≪安宅船(あたけぶね)≫

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動く要塞、動く砲台です。大きさは個体差があり、櫓が「数十~100挺」。


戦国時代最大級だった九鬼の安宅船(櫓100丁)では、水夫とサムライ合わせて180名が乗りこむことができたそう。伊豆水軍では50挺櫓が標準だったそうなので、一隻の乗組員は水夫50、サムライ50ぐらい。


≪関船(せきぶね)≫

これもでかいのですが、安宅船の半分強の大きさ。
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実質上の主力です。数十人が乗っていました。
向井正綱の関船の場合、水夫20、いくさびと10人。

≪小早(こはや)≫
すばしこい。大きめのボートぐらいです。10人ぐらい乗れる。

楯となる板が両側に付いていて、ここに鉄砲(長砲)を置いて撃つことができました。


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物語の構成

●徳川の急襲により、父、兄、家族がすべて死去
     ↓
●武田水軍の一翼として、天正8年の千本浜沖の海戦
     ↓
●武田の滅亡により、仇敵徳川の配下に。(本多重次との知己)
     ↓
●豊臣秀吉の小田原攻め
   秀吉の悪意により、田子城攻め、下田城攻めをやらされる
   長宗我部元親とのいざこざ
   三浦(三崎)海軍を全滅させ、家康から三崎をたまわる
     ↓
●関ヶ原の戦い
   ウィリアム・アダムズ(三浦按針)と知り合いになる$東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記

     ↓
●西の岬の住人
     ↓
●大船禁止令 → 諸国の船を集める
     ↓
●建長使節
     ↓
●大坂陣 



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 伊豆沿岸での海の戦いは、とてもおもしろい。無名の伊豆ですらこうなんですから、紀伊半島や九州での海の戦いはどうだったんだろう、とむくむく興味が湧いてきます。

 とりわけ、「向井正綱が1人の部下と重須の湊に忍び込み、火を付けて湊をメチャクチャにする場面」、「北条五代記と甲陽軍鑑の記述の食い違い」、「田子城でのいちかばちかの決死の攻撃」、「安宅船の弱点」、「海の砦の攻略方法」、「徳川家康の部下に対する愛情」、「下田城攻防戦での城将・清水太郎左衛門康英のかっこよさ」、「海の武将たちのプライド」、「きまぐれな豊臣秀吉と彼の判断力の見事さ」を描いた部分は見ものです。

☆見知らぬ海へ☆隆慶一郎、1987年(講談社文庫、1994年)
 麁鹿火さんより抜粋

 ☆見知らぬ海へ ☆隆慶一郎さんのこの小説は、とてもおもしろいです。 ちなみに、続編は白石一郎さんが書かれています。白石一郎の航海者・上下(幻冬舎)

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に向井正重の子、正綱、忠勝がよく書かれています。また、多くの水軍の書物がありますが、とても勇壮な人たちが多く、また、縛られるのがきらいで自由に行動していた人たちが多かったようです。航海者では日本へのオランダ船・漂着者イギリス人・ウイリアムアダムス(三浦按針)、ヤンヨーステンなど一行を家康のもとで、1580年から徳川水軍の首位でにいた向井正綱、忠勝がよく面倒をみて、徳川水軍の長として向井将監と代々言われ、鎖国の200年間、長崎・出島でオランダ国のみ徳川幕府は交易をしたことなどが書かれています。日本には四百年前頃の戦国時代の戦いで、関ヶ原の戦いでは18万人、豊臣秀吉の小田原攻め20万人、大阪の陣、文禄・慶長の役20万人など含め、日本では、歴史のなかにとても大規模な戦いが多く、その中に強く勇壮で頭のきれるリーダーたちが数多くいたようです。


 再稿でーす。おもいだすのも、いいねーーー!!$東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記