「一流店」と呼ばれること 叙々苑 | 東京リーシングと土地活用戦記

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ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。



「うちの借金は、100億円ですよ! 今のままじゃあ、1億ずつ返したって、100年かかるんです! 早く返済したいから、新しい店を出して売り上げを上げたいんだ!」。叙々苑社長、新井泰道は拳を握りしめ、銀行の応接室のテーブルを叩いた。「不況の今だからこそ、いい物件が嘘みたいな値段で手に入るんじゃないですか。お願いします。融資を検討してください」。
 懇願する新井に、融資担当者は先刻から同じ返事を繰り返していた。「社長、今はじっとしていたほうがいい。こんな状況で出店するのは無謀です。これ以上お貸しすることはできません」。
 時は1993年、91年のバブル崩壊の後、融資を渋る担当者を相手に、新井はさらに語気を荒げた。「金のない私らはね、のんびり時期を待ってる余裕はないんだ!」。借金が100億円にも膨らんだのは、バブル期の巨額な投資の影響だ。80年代の終わり、土地高騰の頂点で買った東京・西麻布の54坪の土地に、総工費36億円、7階建ての自社ビルを建て、91年に「游玄亭(ゆうげんてい)西麻布本館」としてオープン。すでに10店舗以上出店していた「叙々苑」より、商品、内装、サービスともに高級化した「游玄亭」は、これまでの焼き肉店にはない座敷の個室も売り物だった。
「その直後に、440坪の土地に14億円かけて工場を作ったんです。豪華店舗と工場ができて、さあ、事業拡大するぞ!と意気込んだときにバブル崩壊だ。ウチは出店したいのに、銀行は金を貸してくれない。景気がいいときは借りてくれと頼んだくせに。だから喧嘩したんですよ」。
「でもね」と新井は続ける。「冷静に考えれば、銀行さんが貸さなかったのも無理ないよ。当時は年商60億円で借金100億円。不景気の割に業績は悪くなかったが、当初の予定よりは売り上げは伸びなかった。その上もっと借りたいと言ったんだからね。年商の倍以上の借金をするなんて、健全経営にはほど遠いでしょう。私は料理人出身だから計算しなかったの。経営も知らなかったし。だから借金も全然怖くなかったんだね」。 当時、新井は51歳。15歳から焼き肉一筋に生きてきた。「だから絶対の自信があったんですよ。美味しい焼き肉を提供すれば、お客さんが来ないはずはない。お客さんが来てくれれば店は繁盛する。繁盛すれば借金も返せる。単純明快なのよ。だって、六本木本店には行列が出来ていたし、他の店舗も好調でしょ。展開しても絶対に成功すると思った」。銀行に断られた新井は、融資してくれる金融機関を探した。「リース会社が貸してくれました。銀行より審査がゆるい分、金利は高いけど仕方がない。そこで一気に借りまくって、次々に店を出していったんです。世の中が不景気で停滞しているときに、イケイケ!ドンドン!の勢いで」。
 そうして平成不況の真っただ中、新井は高級業態の「游玄亭」4店を含む20数店を出店した。
「店を一気に増やしたお陰で、年商も3倍に増えました。今後順調に行けば、当時の借金はあと10年ぐらいで返せるでしょう」。“計算しない”新井の方向性は間違っていなかった。
 しかし、不況の最中、高級店を出し続けることに、不安はなかったのか。世の中はデフレ一色。高級店は次々に店を畳んでいた、その時期に──。「よそ行き”の焼き肉店があってもいいと思ったんですよ。いつもは普段着で近所の焼き肉屋さんに行く。でも、たまにはお洒落して『游玄亭』や『叙々苑』に行きたい、と憧れられるような店を作ろうと。東京は広いから、そういうお客さんを相手にしても商売できると思ったの。初めて出した六本木の『叙々苑』だって、焼き肉店としてはあり得ないお洒落な店だったんだから」
 中学卒業と同時に焼き肉店に入店した新井は、2店で14年間働いた後、29歳のとき東京・神楽坂に12坪・6卓のリースの焼き肉店の主になった。貯金に退職金を足して200万円の保証金を作って果たした開業だった。「そこは前も焼き肉店だったところで、前は日商2~3万円程度だったのに、私は日商14万円、月商にして400万~450万円売ったんです。カルビ 1皿550円だったから原価率は50%にもなるけど、人件費は12%。私が3、4人分働いたからね。商品がいいからお客さんはよく入った。3年半無休で朝 11時から夜中2時まで働き通しだったね」。
 新井にはもともと独立志向はなかった。「独立なんて考えたこともなかった。料理人だから経営はできないと思っていたんです。ところが店がヒットして、途中から毎月100万円ずつ貯金ができちゃった。よし! これを元手に勝負しようと思ったわけ」。
 東京で一等地と言われる銀座、赤坂、六本木に物件を探した。「下町で500円で売る肉が、銀座なら800円で売れる。どこに店を出しても肉の仕入れ価格は同じなんだから、高く売れるほうが得でしょう。差額はそのまま利益になる」。 76年、33歳の新井は六本木に「JOJOEN六本木店」を開業した。ビルの3階の18坪の店で、テーブルは7卓。保証金を入れて3300万円かかった。「内装にお金をかけて、素敵なお店を作ったんですよ。真っ赤な絨毯(じゅうたん)を敷いて、花を生けて。従業員の男性は蝶ネクタイ、女性はパンタロン。カッコいいでしょ。当時、焼き肉店で働く女の子は割烹着に白い三角巾、という格好が普通だったから、うちをクラブと間違えたお客さんもいましたよ」。
 店内には女性客を喜ばせる工夫を凝らした。「当時の六本木はね、銀座のホステスさんが店がはねた後に来る街だったの。だから深夜の時間帯には、女性がきれいに見えるように照明を落とした。女性トイレには色つき鏡を付けて、ライトを斜めから照らす。こうすると鼻筋が通って美人に見えるんですよ」。
 メニュー開発にも力を入れた。「目玉商品がほしくて肉屋さんに相談したら、タンを使いなよ、と勧めてくれたんです。当時は、タンシチューぐらいにしか使ってなかったから、品物が余ってた。塩をかけて焼いて、賄いで食べてる、というんですよ。旨くて安いよ、と。レモンダレは、タン塩にレモンを搾って食べたい、というホステスさんの注文がヒントになった」。
 新井が考案した「タン塩」は、大ヒット商品となった。ほかにも、現在、日本中の焼き肉店で提供されているメニューやサービスに、「叙々苑」発祥のものは多い。「それまでは皿に無造作に載せていた肉を、うちはきれいに並べて盛り付けた。ピシッとアイロンのかかった布のエプロンも出して」。今ではおなじみの、デザートやにおい消しのガムのサービスも、「叙々苑」から広がったもの。「女性をターゲットにしたからこそ生まれたアイデアです」。
 常に“お客を喜ばせる”ことを考え続け、お客の声に耳を傾けた。「店の者だとバレないように着替えてお客さんと一緒にエレベータに乗って、生の声を聞きました。美味しかった、高かった、キムチが酸っぱかった……。そんな本音の感想がとっても参考になりました」。
 努力は報われ、店は繁盛した。「50万、100万と売り上げが伸びて、お客さんの行列が下の店まで続いて。隣のスナックを買い取り、さらにその隣、階下と店を広げました」。開店当時の約6倍の面積だ。「110坪で月商8000万円ですよ。1日600万円売ることもあったから、レジから一万円札が溢れる。チョコレートの空き箱を下に置いて投げ入れて、それも一杯になるからデパートの紙袋に詰め込んで。従業員が忙しくて可哀想だから、月給を入れた給料袋の上にさらに5万円、10万円とホチキスで止めて渡してあげた。月収20万円の人が30万円もらえるんだから、そりゃ喜んでくれるよね。私もうれしかった」。
 現在、経理部長を務める松本和子は、当時六本木店のアルバイトとして働いていた。「社長は味や接客には厳しいけど、率先して体を動かすし、気前がいいんです。お客さんを大事にするから、売り上げにノルマもない。ノルマがあると、お客さんに押し売りするから嫌だと言って。ですから従業員はのびのびしています」。 実は、新井はこの頃に最初の大きな決断をしたという。「それはね、無煙ロースターに切り替えたこと」。開業より何より、悩んだことだった。
「煙が出て、肉の焼けるにおいが広がる焼き肉店。その“空気”が変わって、お客さんが来なくなるんじゃないかと怖かったんですよ。繁盛してなければ、あれこれ工夫して替えるけど、大繁盛しているときに設備を切り替えるのは、勇気がいりました。本当に迷ったね」。だが、「ホステスさんたちが髪に染み込むにおいを気にして、美容院で髪を結い直す前日しか来られない、というのを聞いて、決心したんです」。
結果、女性客も松本ら従業員も無煙化を喜んだ。「着物のホステスさんもにおいを嫌がりますから。無煙ロースターにして、さらに女性客が増えました」。
 ワンランク上の「游玄亭」を展開したのも、お客の声に応えるためだった。「予約したい、接待に使いたいから座敷を作ってほしい、という要望が多かったんですよ。それで、完全個室の座敷がある高級店舗を作ったの」。
 赤坂店は永田町が近いから政治家が多く、西麻布店は芸能人に人気があるという。「車で乗り付けてそのままエレベーターで個室に入れば、ほかのお客さんに顔を見られないですむ。芸能人がテレビのトーク番組で、『叙々苑』で最高の肉を食べた、『游玄亭』でごちそうして親孝行するのが夢、なんてしゃべってくれるから、すごい宣伝効果ですよ。ありがたいですね」。
 しかし、順風満帆だった新井も、BSE問題には頭を抱えた。「あれだけは困った。BSEがなかったら、うちはずっと右肩上がりでいけたはずなんです。BSEの影響で、タンが高くなっちゃった。原価1200~1300円のタンを1200円で売るんだから、売れば売るだけ損するんです。タン塩で 2000円、3000円は取れないからね。焼き肉業界全体が泣いている。ほかの商品で補って、何とかやりくりしている。苦しいときを勉強と思って乗り切らないとね」。今、新井が目指すのは、「高級店」より「一流店」と呼ばれること。「うちは“食のエルメス”だと従業員に言っているんです。一流ブランドがブランドたるゆえんは、『不良品がない、買って後悔する人がいない、次もまた買おうと思う』という点にある。うちも、一度食べたらまた来たくなる、そういう店でありたい。ほかの店より高くてもお客さんを納得させるには、いつも一流の味を提供できるように、まい進しなくてはならないんです。焼き肉店の最高峰であり続けたいと思っていますから」。そして、こう加えた。「食べ物屋はボランティアですよ。人の喜ぶ顔を見るのが喜びなんですから」
 今後は別ブランドの立ち上げも検討中だ。「工場にはまだキャパシティもあるし、より広い展開を考えていきたいと思っています」。
自信に満ちた言葉には、焼き肉一筋に歩んだ50年の重みが込められていた。
日経レストラン2008年3月号のコラム「決断のとき」
叙々苑 社長 新井 泰道(あらい たいどう)氏
1942年神奈川県生まれ。中学卒業後、叔母の勧めで東京・新宿の焼き肉店に入店。さらに東京・神田の焼き肉店に13年勤めた後、72年、東京・神楽坂で開業。76年「JOJOEN六本木店」を開業し、従来の焼き肉店の常識を覆すメニューやサービスを提供。84年には株式会社叙々苑設立。首都圏を中心に店舗展開し、2008年2月現在、45店舗(「叙々苑」36店、「游玄亭」6店、デリカ店3店)。全国焼肉協会会長も務める




叙々苑はとてもおいしいです。私は、新宿の小田急ハルク店にたまに行きます。


いつ行っても、とてもおいしいのは、やはり、社長さんの焼き肉一筋に歩んだ50年の重みですかね。