吉田松陰・孟子  | 東京リーシングと土地活用戦記

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ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。



吉田松陰 天保元年(1830)~安政6年(1859)
 幕末の尊王思想家。幼くして叔父の吉田家を継ぎ、少時より(山口県)毛利藩校・明倫館で家学の兵学を教授し、その才能を嘱望された。11歳のとき藩主の面前で『武教全書』を講じ称賛を得た。兵学者として九州、江戸、東北と日本全国を遊歴(生涯の行程は13,000キロ)し、見聞を深めるとともに、宮部鼎蔵や佐久間象山をはじめとする多くの学者や憂国の志士と交わり、尊王攘夷思想を深めていった。 嘉永6年(1853)6月黒船を眼前に見て、広く世界を探索することを決意し、門弟の金子重之輔とともに安政元年(1854)3月、ペリー艦隊で密航を計画するが失敗。幕府に自首して江戸の獄につながれた。その後、萩の野山獄に移され、さらに自宅に幽囚されたが、野山獄での獄中教育の中断を惜しむ周囲の配慮からやがて松下村塾を主宰して子弟を教えた。塾生からはお金をとらなかった。門人の個性を重視し、世界情勢を念頭においたきわめて実践的な教育を行い、死までのわずかな期間に、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、伊藤博文、山県有朋など幕末期から明治時代にかけて活躍した逸材を輩出した。安政6年(1959年)5月、萩の野山獄に入獄中の松陰に幕府から江戸送りの命が下され、その年の10月27日に江戸伝馬町で処刑された。(なんと! 私の誕生日) 没年齢30歳。
 私が尊敬する諸葛孔明や賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高(かんこう)や魯仲連(ろちゅうれん)のような功績を残すこともできなかった。こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。故郷の人は私を非難するが、私は、国のために命を投げ出す覚悟はできている。誠意を尽くせば、心は通じると古くから言われているように、人は、是非とも高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も敢えて追い求めたい。
 松陰の基底は 中国・孟子(BC372~BC289)、五輪であり、人として守るものは父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信でありました。仁「人間はだれでも他人の不幸を見過ごせない同情心がある」「天の将(まさ)に大任をこの人にくだすさんとするや、必ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為(な)なさんとするところに払乱せしむ」。孟子は孔子の思想を継承して『孟子』七編を作成。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け、『孟子』・『大学』・『中庸』・『論語』と合せて四書とし、のち儒教の必読書となりました。
 仁義こそすべて。天子は天命にそって人民を支配する。仁(愛)義(道理にかなう)の心で政治を行うのである。なぜなら人はすべて天から受けた仁義の心をもっている。人間性の全面的開放が目的である。それが王道政治である。
 儒教の思想は人間中心主義であり、他の宗教と思想よりも人間を重視する。 この点はキリスト教の神中心的な思考、老子哲学とか道教、仏教などの自然中心、または人間と自然を同一視する考えと大きく異なる。だから自然自体とか人間が死んだ後の来世についてはあまり関心を持たず、もっぱら人間とはなんなのか、現実の中でどうすれば自己完成ができるか、また現実に自分をど う反映させるのが正しいか、という実践中心の人間観を重視するだけである。孔子は「人を奉ることもできないのに、どうして鬼を奉れるか」と言い、また「生もよく分からないのに、どうして死が分かるか」と答えた。 これは孔子の関心が鬼ではなく人間、死ではなく生にあることを裏付けている。 このような思考は人間の本性が善であると考え、その拡張のための実践を主張した孟子と、たとえ人間自体は悪なる存在であっても人間の意志による悪なる要素の克服を主 張する筍子によって発展させられ、特に宋代の性理学では太極であらゆる万物の生成を説明し、万物の中で一番優れた存在が人間であるという考えを理と気の概念を借りて 哲学化した。説明の方法は違っても、儒教ではまず人間と他の存在と区別される要素を道徳的普遍性と考え、その道徳性をどのように自覚して実現するかによって人間らしさが決められる。孟子は人間の本性が善なるものである(性善説)というところから出発したが、すべての人間が外貌と感覚器官の共通点を持っているように心にも共通点があり、理と気がそれである。 このような生まれつきの人間の共通点は具体的には仁、義、礼、智になる惻隱之心、羞悪之心、辞譲之心、是非之心で、この心がなければ人間でないと考える。 そのなかで、 惻隱之心は不忍人之心とも言われ、これさえ持っていれば個人の完成はもちろん、理想社会の建設もで可能であると考える。孟子は人間の感覚的な欲も認めるが、これは人間の内面でなく外的環境と関係あるから人間の本性と見做さない。 だから孟子は感覚的な本性でなく道徳的な本性をどう具現するかを重視し,その方法として四端を拡張すること、浩然之気を育てること、話をしないこと、欲を減らすことな どを強調している。 これらの方法は人間の内面とも関係ある。 だから究極的には「万物のすべてが私にある」といい、「心を尽くすと本性が分かり、本性が分かると天を知るようになる」と言った。