さて前回のXさんの事例に引き続き、今回はYさんの事例をご紹介したいと思います。Yさんは30代の女性で、会社勤めをしながら本格的な絵画制作に取り組まれて、個展を開いたり各種展覧会に作品を依頼出展するほどの腕前の持ち主です。現在はプロのアーティストとしての完全自立を目指しておられます。Yさんも当オフィスでトラウマやパニックの治療を受けておられました。その治療中の出来事として視覚が改善しと空間認知能力が向上したエピソードを書きたいと思います。
Yさんは仕事と制作の両立生活を続けるなか、職場での対人関係ストレスや制作上の悩みから軽度の抑うつと不安障害を発症し、心療内科で投薬治療を受けていましたが、なかなか思うように改善しなかったため当オフィスでEMDR治療を受けられることになりました。不安と抑うつの根源となっていたトラウマ体験をターゲットにしたEMDRを継続的におこなった結果、症状は短期間で改善し日常のストレスにも上手に対応できるようになっていかれました。そして精神状態が安定するにつれてYさんは別の面でも大きな変化を感じていました。
その大きな変化とは、視覚野の拡大と立体把握能力の劇的な向上でした。
Yさんは若い頃から斜視があり物をまっすぐに見ることが苦手でした。また物事を平面で捉えるのは出来ても立体物の把握が極端に不得意だったため、立体造形は諦めてもっぱら平面の絵画制作に取り組まれていました。立体物を空間的に把握するためには「心的回転(メンタル・ローテーション)」という認知機能が重要な役割を果たします。心的回転とは、立体物を心的イメージの上で回転して「別角度からはこう見える」ということを仮想的に把握する認知機能です。例えばサイコロは真上から見ると正方形に、斜めから見ると六角形に見えます。通常はわざわざサイコロの角度を変えて観察しなくても心的回転によって「斜め上から見ると六角形に見える」という視覚的イメージを脳内で仮想的に作り出すことができるので、観察者の視点によって見かけが異なっていても「同一物である」と認知することが出来るわけです。
Yさんはおそらく生まれつきであると思われますが、この機能が極端に弱く、物事を二次元の平面上でしか把握することが出来ませんでした。かつて芸術系大学で学んでいたときも指導教官から「描写が平面的すぎる」「もっと奥行き感を意識して描きなさい」と注意されることが多かったそうですが、Yさんには何をどうやったら良いのか全く分からず途方に暮れるばかりでした。大学卒業後は仕事をしながら制作は続けていったのですが、何をどう頑張っても立体的な描写がうまく出来ませんでした。ところがEMDR治療が進むなかで、
ある日Yさんは目の前の物が奥行き感を伴って立体的に見えていることに初めて気が付いて感激します。
対象物と背景との距離感、対象物そのものの立体感、立体と陰影の関係等々、目に見えるもの全てが3D的な奥行き感を伴って目の前に広がっていることに気づきました。それはYさんにとっては衝撃的な体験で、彼女の日常にも作品制作にも大きな影響を与えました。
Yさんの衝撃的な体験はXさんの場合と大変よく似ています。EMDRもBSPも視点の移動を利用して脳内のストレス処理過程を適正化する治療法ですので、上下左右または遠近の視点移動をポインターや光刺激(ライトバー)で誘導します。結果として眼球をかなり広範囲に動かしながらストレスポイントを探し、反応を適正化していくわけですから、ストレス処理をしながら視力回復のトレーニングも同時並行で出来ているわけです。
Yさんは視覚機能、特に奥行き知覚の能力が急速かつ劇的に改善したおかげで俄然制作意欲が高まり、従来の平面描画だけでなく、木彫やフエルト小物の制作、洋服のデザイン等に興味が広がっていきました。元々平面描画に関してはプロレベルの方ですので、その能力が立体造形に生かされることになってYさんのクリエーターとしての守備範囲は圧倒的に広がりました。なかでも洋服の型紙を作る際も出来上がりのイメージが立体的に出来るので、短時間でサクサクと仕上がるようになったそうです。現在は絵画作品の他にオリジナル小物や人形(ブライスドール)のカスタマイズ、人形用の服や小物の制作などに幅広く取り組まれ、ネットでオリジナル小物の受注・販売もされるようになりました。絵画作品の方も立体感のある生き生きとした描写の作品を制作されるようになり、各種ギャラリー展では主要作品のいくつかは売れるようになりました。
・・・と書くといかにもEMDRすごいでしょ、という自画自賛に見えるかもしれませんが、EMDR治療はあくまできっかけづくりのお手伝いをしたに過ぎません。やはりYさん自身の元々の作画能力の高さが基本にあってこその飛躍的な発展ですから、凄いのはYさんの力ですよね。最後に強調しておきますが、EMDRやBSPはあくまでも心理治療の技法で、トラウマやパニック等のストレス関連障害に特化した治療法です。視覚機能の改善はあくまで副次的効果でしたというわけですが、Xさん、Yさんの他にも劇的な改善例がありますので、「見え」の問題に悩んでいる方は一度受けてみられても良いのではないかと思っています。
(※Yさんはプロの作家さんなので、著作権とプライバシーを考慮して今回は作品の写真掲載はなしです。冒頭のイラストはフリー素材からのイメージ画です。)