人は情報を伝えるのに言葉を使うことが多い。

 

会話でもそうだし、手紙やメールで使う文字も結局は言葉。

言葉を注意深く選んで文章を組み立てていけば、自分が納得する文章を作ることができるかも知れない。

でも、相手側がどう受け取るかという問題は残る。

言葉の定義やイメージが送り側と受け側で違うことはよくあるし、何より受け側がすべてを注意深くちゃんと聞き取るという保証もない。

 

以前から知っている歌を聞いたのに、ある時、とある心境で聞いて初めてこの歌の本当の意味を理解したなんて事ないかな。

歌はいつでも同じように歌われているのだから、これだって受け側の違いになる。

 

言葉は情報伝達手段としてはかなり不完全だと思う。

言葉に信用を置くのは注意が必要だ。

 

何か悪いことを言われても、その言葉だけで気分を悪くする必要はない。

その人が自分に対して明確な悪意を持っていると思えなかったなら、

それは誤解や言葉のあや、定義の違い、たまたま出てしまった失言など、何かしら特に重要ではない事が原因なのだ。

聞かなかったことにすればいいのではと思う。

 

自分に対して明確な悪意を持っていると思うなら、なおさら気にする必要はない。

その場合は何をしても、何かしら言われてしまうでしょうから。

でも、なぜ自分に悪意を持っているかは一度はよく考えて見た方がいいかも知れない。

 

 

ある日、自分ではない誰かが世界の時間を少しだけ止めたとする。例えば10分間。

再び時間が動き出した後に、少し前に10分時間が止まっていたことを認識できるでしょうか。

元々おかしな質問なので、あまり難しく考える必要はない。

 

何となくこう考える人が多いかなと思う。

誰しも全く気がつかない。時間が止まっている間は全てが静止し、静まり返り、まるで写真の中のような世界。

自分の肉体はあっても意識はないから気が付くことができない。

 

もちろん、もっと他の事を考える人もいるでしょうけど、そう思いたくなるのもわかりませんか?

もしそうだった場合、写真の中のような世界というのは、全てが動かないのは当然のこと、音もない。

音は物質ではなく、空気の振動だから時間が動いていないと認識できないんですね。

 

もしかすると人の意識も音のようなものかも知れないと思った。

物体としては存在しないけど、現象として存在する。

時間の流れる世界でのみ存在し、何か他の物質が活動することで生み出される現象。

私という現象なのだという考え方。

 

さらに考えを進めているのだけれど、まとまっていないのでまたの機会に。

日本の教育では、やり始めたら最後までやり通すというのが美徳とされることが多いと思う。

習い事やクラブ活動など途中でやめたり変えようとすると、「根気がない」とか「飽きっぽい」とか、

とにかく否定的な言葉をもらうことが多い気がする。

別に教育課程後の社会人としてもあまり変わりはないかも知れない。

 

人生で何かに躓いて解決が困難な問題に直面したとき、

そこで逃げずに何とか解決しようと努力をするか、

その場を一度放棄して必要に応じて他に代わりを探すかも同じように言えると思う。

 

逃げるのはあまり良いイメージはないと思う。

でも、もしそこで頑張っても長い間解決できない場合、

何も解決策が思い浮かばない場合はどうすればいいだろうか。

頼れる人に相談したり、ひたすら時間が解決するのを待ってじっとしたりかな。

 

逃げるのを選ぶことは簡単だという場合があるけど、そうでもないかも知れない。

人は自分だけ流れから外れていくのを怖いと感じることは多いと思う。

逃げることは少なくとも自分の流れを変えることで、実は大変な力がいると思う。

 

どちらかを選ぼうなんて考えなくてもいいと思う。

もうちょっと頑張ろうと思ったらそうすればいい、これは駄目だと思ったら逃げてもいい。

 

いや、選ばないのはやっぱり良くないかな。

選ぶのは大事。でもいつでも選び直したっていい。

大事な事はまず選んでその道を行ってみる。

その道を選んだ理由がわかっているともっと良いかも。

たとえそれがどんな非論理的で他愛のないことだったとしても。

進んだらたまに周りを見渡してみて、これでいいと思ったらもっと進めばいい。

間違ったと思ったら戻ってもいいし、もっと違う道を行ってもいい。

 

実際に知らない場所で道に迷ったら大抵の人はそうすると思う。

本当に当たり前のことだ。

 

すごく大層なタイトルですね。ちょっと恥ずかしいです。

 

人は死んだらどうなるの?なんて事は誰でも想像すると思う。

仮に肉体が機能しなくなっても意識が残るのであれば、どうなるでしょうか?

人の入力機関である目、鼻、耳、口(味覚)、触覚の全てが絶たれて、

真っ暗で何の刺激のない世界になるのかなと思う。

それは想像すればするほど怖い世界です。

誰がそのような世界で耐えられるでしょうか?

何もない世界で際限なく一人きり。

それほど長いときを待たずして精神は崩壊してしまうでしょう。

その崩壊した結果どうなるでしょうか?

ある意味やりたい放題です。

だって自分の意識の中なのですから。

自ら知らずして自らを守るためにあるはずもない仲の良い友達を作り出すことも可能でしょう。

そんな人を一人などと言わずに、町や都市、星や宇宙だって作り出すことができるでしょう。

最終的に自らをも騙し、それはやがて世界となるかも知れない。

そして、それはその人の意識が保障される限り存在し続ける。

 

もし人の意識を電子の世界に移せたら・・・って考えると、

それはもう別の宇宙や次元なのでは?と思える。

それこそ時間を越えた世界にも思える。

コンピュータに保存されているデータにはタイムスタンプがあるけど、それはそれ程重要ではない。

過去のデータを参照することなど造作もないことだ。

移す先が電子の世界でなくともいい。

電子という言葉を使うからインチキくさく聞こえてしまう人もいるだろう。

でも、人の意識の源が何なのか、知りたいけど理解できそうもない。

 

これは今後もずっと考え続けることになるだろう。

できる限り思いついたことを言葉に残しておきたい。

 

良いものは好き、悪いものは嫌いと決まっている訳ではないけど、

一般的には、好きなものには良いイメージを、嫌いなものには悪いイメージを持っていると思う。

 

私の中では「好き嫌い」と「良し悪し」は意識して区別している。

「良し悪し」は例え独善的であってもその理由を説明できるもの。

このボールペンは良い。だって書いたときの滑らかさが良いから、のように。

「好き嫌い」には理由は必要ない。

強いて言えば「気に入ったから好き。気に食わないから嫌い」かな。

「何で玉ねぎ嫌いなの?」などと聞かれても説明などできないのだ。

ある意味最強の言葉でしょう。だって反論を許さないのだから。

 

どうしても苦手な人がいたら、その人の事を悪く言う必要はない。

ただ「嫌い」と思えばいい。理由など必要ない。

ただ言葉にはしない方がいろいろ都合がいいと思う。

気に入った人がいても同じこと。

でも、その人を好きな理由を考えることは別に構わないと思う。