決断という言葉は何か大きな響きがする。

単純に決めるということではなく、主観的でもいいから何か大きな決心をするときがあるでしょう。

 

それはその瞬間を必ずしも認識しているとは限らない。

後になってから、あれは当時気が付かなかったけれど大きな分岐点だったと思うこともあると思う。

 

今回はそうではなく、大きな分岐点と自ら認識して決断するときについて考えてみたい。

こうすればいいと、判断に迷いがないときはいいけれど、常にそうとも限らない。

 

迷いに迷って、でも決断の期限が区切られていたり、様々な理由で迷いに迷って決めることもあるでしょう。

決めた後でもどうしても心の片隅に残ることがあるかも知れない。あそこで別の選択肢を選んでいたらと。

 

そう思わずにはいられないこともあるでしょう。人はいつでも最善の選択だけをして生きてきている訳ではない。

でも、前にも書いた通り、それは必然なのだ。必然なのだと思えばいい。

悩むことも必然、最終的にそれを選んだのも必然。

最終的に選んだもの、それ以外を選ぶ選択肢など最初からなかったのだ。

 

そこで間違った選択をしたと感じたのであっても、それを悲観する必要はない。

絶望することがあってもそこはまだ道の途中でしょう。

それでよかったと思えるようにまだ先に進める力があるでしょう。

今はないかも知れないけど、きっとその力が出てくる瞬間があるでしょう。

それを信じていけばいいと思う。

 

そうやってみんな生きている。

そう思いたい。

 

体調が悪くなったときに薬に頼ることがある。

飲むものや塗るもの、吸い込むものなど様々だが、基本的には体内に取り込んでいい影響を及ぼしてもらおうというものだ。

 

ただ、自分に影響を及ぼす方法はなにもそれだけではない。

人と外界の仲介を果たすのは五感だ。

見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味を調べること、触って見ることで外界から影響を受けることができる。

 

所謂薬が肉体に直接的に影響を及ぼすなら、五感は精神に影響を及ぼすのかも知れない。

もちろん肉体と精神は完全に独立したものではないだろうから、どちらも相互に影響を及ぼすだろう。

 

何が言いたいかというと、自分の精神は自分の肉体の五感から取り入れた刺激の産物なのかもしれないということだ。

自分の肉体に五感がなければ、自我が芽生えるかさえ怪しい。

生きるためには衣食住の環境が必要なのはもちろんだけれど、

精神面から見ると生まれてから今に至るまで五感から受けた刺激がすべての入力なのだ。

 

精神的にちょっと疲れたら、意識して五感で癒してみると良いかもしれない。

何かをみたり、聞いたり、香りや味を楽しんだり、何かに触れてみる。

漠然と自然の中に行って散歩するより、五感を意識して、今受けている影響を感じてみる。

すると効果があがるかも知れないと思った。

 

ただ、この五感、ちょっと残念なことがある。

スイッチを切れないのだ。

常に何らかの刺激にさらされている。

だから、自分の環境にはできるだけ気を使った方がいいかも知れない。

 

もし完全にスイッチを切ることができたら、短時間でパニックになるのかも知れないけど、

どういう世界なのか、ちょっとだけ経験してみたいと思った。

運命ってあると思いますか?

 

運命が決まっているということは、おおよそこんな感じだろう。

未来はすでに決まっていて、自分がどのように行動しようが結局は同じ結果になる。

運命など存在しないということは、未来の結果は自分次第で変えられる。

 

実は私は現時点では、どちらかと言うと前者の考えに近い。近いけれど、少し違う。

私の考えでは、未来はすでに決まっている。なぜなら自分がどのように行動するかもすでに決まっているから。

自分だけでなく、この世に存在する全てのものがすでにどのように行動、変化するかも決まっていて、

後は時間軸に沿って、その事象が起こるだけだと考えている。

 

私は自分が選択したものは、もちろん自分の意志で決定してきたとものと思っている。

そんなことは不可能だし、考えることに意味があるのか怪しいけれど、仮にとある選択の場面を複数回やり直したとする。

ここで言うやり直すとは、選択後の未来の記憶を持った上で選択をやり直すということではない。

純粋にその選択の瞬間を全く同じ条件で複数回やってみるということだ。

 

例えばAにしようか、Bにしようかと迷いに迷った結果としてAを選択したことがあったとしよう。

その瞬間を何度か試せたとすると、Bを選ぶ場合もあるだろうか?または迷わずに簡単にAを選択するということがあるだろうか?

いきなりCという選択肢を思いつき、それを選ぶということがあるだろうか?

私はないのではないかと思う。

全く同じ条件で繰り返すのだから、何度やっても全く同じように、迷いに迷って結局はAを選択すると思う。

他のものを選ぶには、何かきっかけが必要だ。

でも全く同じ条件で繰り返せば、そこで何か新しいきっかけが入る余地がない。

 

つまり自分の意志ですらもう既定なのではと疑っている。

それなら、自分の意志は軽んじるべきものなのだろうか?

全て決まっているなら考えるほど空しくて馬鹿馬鹿しいと思うのが普通でしょう。

でも私は不思議とそこまで悲観していない。理由はうまく説明できない。

 

これも今後考え続けていく一つの案件になるだろう。

 

 

私は鉄道にはほとんど興味がない。

でも人生を鉄道や、その線路に例えることがあるのは知っている。

人生のレールなんて言葉があるじゃないですか。

 

今自分がいる場所を枝線もしくは支線だと思う人はあまり多くないのではないかと思う。

私は私の人生しか知りませんが、どのような境遇でも主線にいると思っている。

それは自分の人生については、やはり主観で見ずにいられないからかも知れない。

 

ところで、人生をレールに例えたとき、主線、枝線って何だろう?

主線は大抵は直線、もしくはゆるやかなカーブを描いていて、枝線はポイントを切り替えて移っていく路線というイメージがある。

 

人は気が付けば生きている。

生まれたときに誰かに背中を押されてその慣性力で生きていると思うときもある。

でもあるとき、突然にどう生きますか?と問われる。

そのタイミングは人によって違うだろうけど、それを言われたときにとても戸惑う。

今まで本線を生きて来たのに、それ以降が枝線しか分岐していないような気になったりもするだろう。

つまり本線が見えないからどう選択していいかわからないのだ。

 

別の場面もある。

本線から無理やり下ろされてしまうような感覚。

今まで日常的に普通に過ごしてきた毎日が、外的要因で継続不能になる場合。

 

自分で本線から外れる場合もあるだろう。

ずっとこのまま続くと思っていたのに、自らの選択でそれを放棄するとき。

 

枝線を選んでしまった、迷い込んでしまったと思うことがある。

でもそれは本当にわずかな期間だと思う。

最初は見慣れない風景で遠くを見渡すこともできなくて、とても不安になるかも知れない。

しかしやがて見慣れた風景と変わり、馴染んでいく。

そしてやがて本線となっていく。

 

人生は本当は自由で溢れている。

他人によって変えられてしまうこともあるけど、本当は自分でもいろいろな選択肢がある。

今まで本線と思っていた場所を外れるのは、実はそれほど難しいことではない。

いずれ本線となる枝線はいくらでも存在している。

本当に些細なところから分岐は始まっている。

それを見逃さないでいたい。

 

自分が向いている方向が常に前だと思えばいい。

誰に認めてもらう必要もない。

 

もうこれしかないってくらい大きな意味を持つもの、それが「自分が望むもの」を知ることだと思う。

これさえわかれば、後はそれに向かうための手段を考えることになるのだけれど、なかなかわかるものではない。

 

そもそも現実的に考えれば、望むものは一つだけって訳にもいかないでしょう。

あれもこれもと言っていると、その中で、これとそれではどちらが大切?という簡単な事にも回答を出せないこともある。

夏に冬が恋しく冬に夏が待ち遠しいように、今の状況次第で望むものの順位が変わったりするかも知れない。

どうすればそれがわかるようになるのか、残念だけれど今の私はその答えまで遥か遠いと思う。

 

ただ、一つこうでありたいと思うのは、自分の望むものは自分で決めたいということ。

他の誰の意見や、姿にも惑うことがない自分の望むものを見つけたい。

難しい理由などいらないと思う。それこそ最強の言葉のひとつを使って、「好きだから」でいい。

誰に理解してもらう必要もない。

 

そういう強い自分になりたい。