アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

ARBEIT MACHT EFREI「働けば自由になる」

<起源>

「アウシュビッツ強制収容所」とは、現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた。

第三強制収容所まで存在。

1940年5月、親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受け、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用し「アウシュビッツ第一強制収容所(基幹収容所)」が開所する。その後、1941年10月、ブジェジンカ村・1942年から1944年の間にはモノビッツ村周辺に連続して作られた。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらをかくまった者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュビッツ全体で14万人が収容されている。アウシュビッツは一般に言われる絶滅収容所としてだけでなく、第三強制収容所モノビッツが示すように、戦争遂行に欠かせない労働力確保のための施設としても機能している。その中で作用した「労働力として適さない女性・子供・老人などを選別し処分する」という仕組が、今日語り継がれる数多くの悲劇を生み出した。一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な被収容者総数の把握は現在にいたってもできていない。

即刻の処分を免れ、たとえば労働力として認められたとしても多くは半ば使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。

理由として、

1、ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。

2、領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。

3、1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったことなどが挙げられる。

劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷な労働と懲罰、さらには解放直前の数次にわたる被収容者約60,000人の西方への移動により多くが命を落とした。ソ連軍による1945年1月の第一強制収容所解放時には約7,500人の被収容者がおり、西方へ移動した生存者を加えると約50,000人が生き残ったことになる。一方で被収容者全体の9割以上が命を落としたとされる。
<各収容所の実態>
・アウシュビッツ第一強制収容所(基幹収容所)
約30の施設から成る。平均して13,000~16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっており、6月14日には最初の被収容者であるポーランド人政治犯728人が到着している。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノビッツ」を含め、アウシュビッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。
入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」(上記写真)の一文が掲げられている。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺まんに対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考えられている。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房となどといった具合に分けられている。また、アウシュビッツ最初のガス室とされる施設がつくられたが、後に強制収容所管理のための施設となった。

死の壁

・アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウ
被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。
「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。このほか、被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプール、農家2棟を改造したガス室とされる施設、さらに4つのガス室とされる施設などがあった。ガス室とされる施設は、撤退時にドイツ軍の手によって破壊されている。収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度)は、収容所のなかでも特に粗末なつくりであったとされる。ここには主に女性が収容された。

・アウシュビッツ第三強制収容所モノビッツ
1942年から1944年の間に、当時のドイツを代表する イーゲー・ファルベン社、クルップ社、シーメンス社といった大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの強制労働を目的とした収容施設がモノビッツ村につくられた。これらの施設群を「第三収容所モノビッツ」と呼ぶ。
収容施設というよりは、安い労働力による大企業の製造プラント。

<殺害について>
この収容所が別名「絶滅収容所」である。
約150万人が亡くなった。

見せしめの集団絞首台

ガス室内部

死体焼却炉
ガス室はクレマトリウム・チクロンを使用し、実験として約800人が犠牲。
死体焼却炉では1日350人の死体が焼かれていた。

<現在のアウシュビッツ>
アウシュビッツ第三強制収容所モノビッツは1945年1月の解放の後、ソ連軍によって破壊されたため現在は残っていない。
アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウのガス室は撤退時にドイツ軍の手によって破壊。
ガス室・銃殺死の壁・死刑台があるアウシュビッツ第一強制収容所は一般公開されている。
1979年、第一・第二強制収容所の遺構は第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきものとして、ユネスコの負の世界遺産に登録された。
多くの要人が公式・非公式にかかわらずこの地を訪れている。一例として、1979年にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、2006年5月28日にはベネディクト16世が訪問している。ベネディクト16世は「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人の教皇として耐え難いことだ」と述べた。年間を通じてイスラエル人学生の修学旅行のルートになっている。日本からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある。

<感想>
この他にも ナチス・ドイツの強制収容所はたくさんあり、虐殺が行われた。
ナチス・ドイツは良い例だが、どの国でも戦争における収容所は全てとは言わないが醜い現実があった。
150万人という数は生半端な数ではないし、他の収容所でも10万人を超えている場所はある。
当然虐殺以外でも、劣悪な環境による自然死・病死、列車内での死等、死因はたくさんある。
劣悪な環境と一言で言っても、50人用の部屋を200人で使用・地面は土泥化・マットレスのかわりに腐ったわら・排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で8人ずつが寝る三段ベッドというレベルであり、食事もろくになく、医療も皆無、常に虐殺を見せ付けられ90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、一切の水・食料を与えない「飢餓牢」は、体力を確実に消耗させ死に至らしめるという抑圧をされていた。
率直に胸が痛くなるし、どんな正義の理由であれ戦争はいけないんだと感じる。
仮に扱う人が多すぎるという理由にしても、人道的にここまでしたということは考えがたいが事実。
歴史として未来に受け継がねばならないし、いかなる理由にしても争いはいけないと思うが、実際に自分の身に降りかかった悲劇と仮定すれば復讐としてそれもまた難しいのかもしれない。
人間とは難しい。