宿かたらい沖縄より
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斬新なホテルで一気に総支配人へ
—それが河口湖畔のリゾートホテルだったんですね。
最初は片手間のつもりだったのですが、どんどん忙しくなっていきましたね。仕事は、レストランで皿洗いから接客まで何でもやりました。ずいぶん年下のスタッフにこき使われて悔しかったですね(笑)。でも、料理長が僕に仕事を全部教えてくれました。もちろん怒られることも多かったのですが、社長だったからそれまでは怒られることなんてないじゃないですか。だからそれも新鮮でした。
—本業はどうされたのですか。
冬の間はよかったのですが、春になると自分の仕事が待っていました。でも、ホテルの仕事が楽しすぎたので、本業は仲間に任せて、ホテルでのアルバイトを続けました。そして1年経った頃、社員になるかどうかの決断の時期がやってきました。非常に悩みましたが、この時、ホテルのスタッフがみんな、僕に残って欲しいと言ってくれたので、今思えばよく選んだなと思うのですが、自然とその道に進みました。
—荒井さんにとってはそれだけ魅力のあるホテルだった。
このホテルがなければ今の自分はなかったと思います。それくらい素晴らしく、映画の『THE有頂天ホテル』みたいなところでした(笑)。当時の総支配人がとてもユニークな方で、流星群が見られるという日に総支配人が「これはお客様に見せなくちゃ」と夜中なのに全客室に電話させられたんですよ。「怒られるから嫌ですよ」といいながらも、「とにかく中庭に来てください」と謝りながら電話しました。でも、集まっていただいたお客様は口々に「ありがとう」と言ってくださいました。きっと、その時のお客様はあの星空を一生忘れないと思います。こういうこともあって、とても人気の高いホテルになりました。
—そうやってホテルの仕事に魅了されていったんですね。
ただ、このホテル大赤字だったんです。それを知った時に唖然としました。仮にも社長だったので経営のことはわかる僕が社員になったからにはここをなんとかしないと、と思いました。そこで周りから、「ホテルのことを知らないペンキ屋だろう」と言われたくなかったので、休日にはとにかく東京に通い、銀座にあった老舗のフランス料理店「マキシム・ド・パリ」の総支配人らのかばん持ちをしながら勉強しました。そこでこれまでの遅れを取り戻すために、休暇とペンキ屋さんで稼いだお金はすべて仕事と勉強にあてました。そして、ゲストリレーションからフロント、セールスまで普通の社員が10年以上かけて学ぶことを2、3年でやり通し、入社して4、5年ほどで取締役総支配人になりました。それが30代半ばの時です。
—異例の早さですね。総支配人になってからはどういうことを心がけたのでしょうか。
仕事は楽しく!料理人とエステティシャン以外は、全員がすべての業務をマルチシフトで動かしていました。かっこいいサービスをするのではなく、リゾートホテルとしてやるべきことをやるということも大事にしました。そして、その考え方は今いるカフーリゾートでも生きていて、スタッフひとりひとりが実践してくれています。結果としてエージェント様からの受賞につながるなど、様々なところから高い評価をいただけているのだと思います。
宿かたらい沖縄より