結局のところ、自分自身の気持ちを自分でどう折り合いをつけていくか、が、人にとって人生にとって、いちばん重要なことなのだな、ということに、歳を取れば取るほど気がつくようになりました。

 言い換えれば、自分自身の「在り方」みたいなものが、この現実世界においては何より大事、な気がします。自分が、常にどういう心情でどういう風に現実に臨んで、どうリアクションをしていくか、が、この世の全ての鍵、と言っても過言ではないのではないかな、と思うんです。

 その自分の「在り方」を見つけて、キープしていけたら、例え現実に何が起きようとも、本当はもう関係ないというか。(もしかしたら「在り方」が先で、現実はその後に続いていくものなのかもしれません)だからこそ、自分の気持ちをどうなだめ、落ち着かせ、いつも風通し良くし、リラックスして心地よく、時には鼓舞していく、その方法、プロセスは、本当には誰も、何物も教えてはくれず、自分で感じ、考え、見つけて得ていくしかないように思います。

 日々暮らして、歩いて、見回してみると、きっと大勢の人が、自分の気持ちをどうしたらいいかわからなくて苦しんでいるように見うけられます。閉じこもり鬱になってしまっている人もいるし、とにかくこの世のあらゆることで気持ちを晴らそうとしていたり、嫉妬や怒りですっかり鬱屈してしまって、常に他人に嫌な態度を取ったり、人を平気でいじめたりしている人もいっぱいいます。

 突き詰めて考えていけば、全ては、人々がそれぞれの気持ちをどう折り合いをつけたらいいかわからなくて、そうなっちゃってるのではないだろうかという気がしてなりません。

 でも、ひとつだけ思うんです。周りの、目の前の人に対して、嫌な態度を取る人々のすごく怖い表情(かお)。そんな情も愛も失くした顔で、みんな、いったい全体どこへ向かおうとしているのかなって。

 努力すれば、戦えば、他人に例えどんな嫌なことをしたとしても、最後はお金や地位や、他人に自慢できる家族や生活が出来て幸せになれる筈、そういう思い込み、洗脳はどう考えても全部ウソだと思います。

 世の中は、どんどん酷くなっていき、ますます人間が住める世界ではなくなっていくでしょう。その現実のこの瞬間に、人に出来ることは、ただひとつ、目の前の人に優しく微笑みかけ、あたたかい気持ちを送り合うことだけ、のように思います。

 そして、みんなが考えていることとは逆に、そうしていくことだけが、自分自身を何よりも守っていってくれるのではないかと感じます。何故って、本当の意味で自分を守るということは、多分自分の心と魂を守るということとイコールだから…。


 さて、電車やバスの中で小さな子供や知的ハンディのある人が僕のすぐ前後の席に座ったり僕の真横に立ったりすると、何故か皆歌い出すということを以前こちらのブログにも書いたと思いますが、つい先日もこんなことがありました。

 やはりこちらのブログに書いたことのある、知的ハンディのある男の人が、先日もなるべく人目につかないように、というご家族の配慮からか、朝早い時間にご来店されて、うちのショップの前の雑貨のコーナーにいらしたのでした。

 その男の人は売り場に沢山並べられた色んな商品を眺めながらいつも大きな声で「素敵〜」とか「いいね〜」などと同じ言葉をずっと繰り返しているのです。

 僕はその時間出勤したばかりで、オープンの準備をしたりしていて、男の人の付き添いの人はどこか遠くのコーナーを見ておられるよう。たまたま他のお客さんも誰もいなくて、僕と、その男の人が広い売り場で、ひとときだけ二人きりになったのでした。

 そうしたら、いつもそうしてずっと同じ単語を大声で繰り返しているばかりの、その男の人が突然歌い始めたのでした。

 いかにも即興で作った感じの「氷点下〜」という歌詞を繰り返すだけの短い歌だったんですが、その男の人をもう何年もお店でお見かけしていますが、今まで一度だって歌を歌ったりしたことなどなくて、本当に僕と二人きりになった途端に初めて歌い始めたのでビックリして、とても不思議だったのでした。

 僕はお店の整理をしたりしながら、何となくその歌声を聴いていたのですが、歌って、本当はそうして人の気持ちをメロディに乗せて歌う、シンプルな良い物なんだなって、改めてそんな風に思って耳を傾けていたのでした。

 歌声は、また風が吹きやむみたいに消えていってしまい、男の人はお付きの人が迎えにいらして、また再び同じ言葉を大きな声で繰り返しながら去って行ったのでした。

 残された僕には、その男の人がたった一度歌ってくれた、その小さな小さな歌声が、何だかとても貴重な物のように感じられて、何となく少しの間ボーっとしてしまいました。

 男の人の気まぐれな小さな歌。その男の人がいったいどこでどんな風に暮らしているのかはわかりません。僕にわかることは、その人が、いつも同じ年配の男性に付き添われ(以前は、ご家族なのかな?って思っていたのですが、いつもそのハンディのある人に敬語で話しかけているようなので施設かボランティアの人なのかもしれません)毎回同じ時刻にお店に来て、しばらくするとまた帰って行くということ。

 お店に来るといつも楽しそうにしてらっしゃるので良かったなぁと僕は思っていて、いつからか、僕はその人がお店にいらっしゃると心の中で「おはよう」と声をかけるようになっていたのでした。

 自分だけが知っている、小さくて些細なちょっとだけ不思議な出来事。どうしてかはわからないけれど、僕にとっては、そういう風が吹いたら消えていってしまうような小さなことが、子供の頃からずっととても重要で大切なんです。



 先日僕は珍しく祝日に都心の繁華街を歩いていたのです。

 街は平日と違い、とても人通りが多く賑わっていて、家族連れや観光客やカップルが大勢行き交っているのでした。

 その街は、たまたま僕の生まれ育った実家のある町からいちばん近い繁華街だったので、そして、なんと今時レアなことに店舗はかなり入れ替わってはいるものの町並みの風景が僕の子供の頃とほとんどそのまま変わっていなかったので、歩きながら僕はいつの間にか何となく懐かしい子供の頃の気持ちに戻っていたのかもしれません。

 しばらく広い地下街を歩き、地上に出る階段に差し掛かった時、僕の目の前を歩いているひと組の親子連れにふと目が止まったのでした。

 多分30代くらいのご夫婦が幼い二人のお子さんの手を引いて歩いていて、ちょうどお昼時だったので、ランチをする為に目的のレストランを探しているような様子でした。

 僕はついさっきまで子供の気分だったはずなのに、ふとその親子連れに目を止めた時、いつのまにか、もっとずっと大人の目線でその人達を見ていることに気がついたのです。

 かつてうちの両親も、目の前のご夫婦みたいに子供たちを連れて休日の繁華街を歩き、昼時になったら、子供たちにお昼を食べさせなきゃいけなくて、子供連れで入れそうなレストランを探したりして、まさにちょうどあのご夫婦のようにして歩いていたんだろうなあって。

 歳を取ってみたら、30代の親がまだどれだけ若く、どんなに迷い、闘いながら子育てをしていたかがよくわかります(僕は結婚もしてないし、残念ながら子供もいないので本当には親の気持ちはわからないのかもしれないけれど)。 もちろん子供達がどんなに無条件に親を愛し信頼して頼っているかということも充分知っています。

 この広い世界の片隅で、そうして子供を連れて歩いてらっしゃるご夫婦に目を止めると、多分お子さんを連れているからだと思いますが、酷い世界の中で本当は心許なく肩を寄せ合っているようにどうしても見えてきてしまうのです。

 その親子連れを見た時に、僕は自然と、先日拝読した、大好きな吉本ばななさんの最新短編集「ヨシモトオノ」の中の「みだしなみ」という小説を思い出していたのでした。

 ばななさんの小説は、デビュー作の「キッチン」の時からずっと、この世を生きて行く上でのあらゆる意味でのサバイバル術が様々な物語の形で描かれてこられたように思いますが、それと同時に人は誰しも必ず何ものかに見守られ、守られているという希望が描かれているように感じます。

 その何ものかは、生きている誰かだったり、あるいはもうこの世に居ない誰か、またはこの宇宙や自然そのものだったりします。

 今回の短編集に収められた作品はもちろんどれも本当に素晴らしいのですが、僕は特に「炎」という小説が強烈に心に残りました。

 描かれている出来事も物凄く怖いし、ここに描かれている愛の形もこれまでどこにも書かれたことがないように思えるくらい物凄くて、読んでいると心というより自分の中にある魂みたいなものが泣いてしまうのを感じます。

 そう、例えば、僕は毎日お店で洋服の販売の仕事をしていますが、どんなに頑張って売り上げを取っても儲けは全くと言っていいほど自分にはかえってきません。

 接客業というのは会社に雇われている限り目に見えるものは何ひとつ残らない仕事です。

 でも、僕が毎日毎日、納品出しや接客など、とにかく一日中ずっと動いて働いているのを、うちの店が入っている量販店のパートさん達が傍らで見るともなしに見ていてくれているということも知っています。

 何も残らず全てはいつか消えていってしまったとしても、僕のやっていることをそうして誰かがどこかで見ていてくれるから、決してそれは無駄ではないのだなって思えます。

 それは仕事だけでなく、もしかしたら人生のあらゆることにも同じことが言えるのではないでしょうか。大したことは何もしてないし、小さな世界で毎日ただ自分なりに精一杯生きているだけだけれど、もしもどこかで誰かが何となくでも見ていてくれているとしたら、僕が生きていることは決して無駄ではないのかもしれない。

 ばななさんの小説を読んでいると、そういう希望のようなものを、あたたかい灯りのようにいつも必ず思い出させてもらえるんです。