正午過ぎの都内――『BAR Rouge(ルージュ)&Noir(ノワール)』にて。
それまで黙々と進められてきた今宵の夜間飛行の下準備は、静寂と共に突如現れた一人の美しい影の出現によって破られた。
ワインレッドのタートルと漆黒のロングコートに身を包み、その類まれなる麗しき美貌は薄暗い店内であっても決して薄れるどころか、わずかな光と影の微妙なコントラストによって、より凄絶なまでに高められていた。
「おや……これは珍しい。お久しぶりでございます――ヒーラー・ケプリ」
グラスを拭いていた手を止めた仮面のバーテンダー・環はめずらしく感嘆の言葉を漏らした。彼でさえも、この悪魔のような美貌を持った神の如き心霊治療医を前にすると緊張も隠せないようだ。
「外来往診のついでに寄らせてもらった。此処に来るのは随分久しぶりだが、元気そうだな」
「ヒーラーもお元気そうで何よりです――ところで今日は?」
そう聞かれると、ケプリは右手にぶら下げていた大きめの白い袋を環に渡しながら、
「本人が渡すのが普通だが、仕方なく代わりに私が持ってきたよ。宮内庁御用達のチョコレート菓子――お土産だそうだ」
「ありがとうございます。その方はもしかして……〈暗闇伯爵〉では?」
「ご名答」
「で、その――〈伯爵〉は?」
「せっかく治りかけていたにもかかわらず、無理して外出した結果、見事に風邪をこじらせてしまったようだ。昨日、自宅に帰った後に倒れて、そのまま私の診療所に運ばれてきたよ。迷惑な話だ」
「そうだったんですか」
「それから、意識が戻ってから、ベッドの上でいろいろ口にしていたな……天をも突き刺すような巨大な白い塔がいきなり目の前に現れたとか、秋葉原でチェック柄の服に紙袋を手にした集団に道を阻まれたとか、浅草で地獄のマッド・コップに邪魔されたり、途中立ち寄った葛飾の回る寿司屋に魅了されている間に外ではスティーブン・キングの『霧』が現実化して、千葉全域を襲っていた……と、ワケの分からんことを喋っていた」
「何でしょうね、それは」
「他にも、女性の名前もたくさん口にしていたな。リョーコとか、キョーコとか、ナル、モコ、ルカ、ヒロミ、アゲハ、ナチ、サナ、ナオ、メグ、サユ、マリア……あれはまさしく、生粋の女好きだな」
「私も単にライブに出かけるとしか聞いてませんが……まさか、夜のお店に行ってたのでは?」
「さぁな。念の為、あの男には一度脳の検査を受けさせた方がよいかもしれんな。知り合いの医者でよければ、いつでも紹介すると伝えておいてくれ」
「かしこまりました。では、〈伯爵〉は今もヒーラーのところに?」
「いや、今朝早々に帰宅させた。実は今夜、お忍びで急遽、欧州中央銀行の副総裁が私の治療を受けに来るんでね」
「お忙しいようですね、相変わらず」
「それから、奴から君への伝言がある――“先日のチョコレート・ケーキ、皆とても喜んでくれた。おかげで助かった。ありがとう”とのことだ」
「そうですか――ありがとうございます」
「では、私は治療の準備があるから帰るよ。また近いうちにゲストとしてお邪魔する」
「是非、お待ちしております」
そう言いながら、環はドアの向こうに消えるケプリの後ろ姿を見送った。
その手には――
以前に、〈暗闇伯爵〉から勧められた一枚の男性アーティストのCDのジャケットが握られていた。
〈それにしても――〈伯爵〉から初めて聞いた時は正直信じられなかったが……こうして改めて見てみると、恐ろしいくらいによく似ているな…ヒーラーとこのアーティストは〉

〈了〉