夕闇迫る、都内某所―




俺は、ポンコツの年代モノのビートルを駆りながら、約束の場所に向かっていた。

街路は真っ赤な夕闇に沈み込もうとしている。普段と変わらぬ、暗く陰鬱な夜の支配へと身を委ねてゆく、この僅かな時間が昔からたまらなく好きだ。


カーラジオから流れてくるのはジェーン・バーキンの『いつわりの愛』。脱力感たっぷりのフレンチポップスが俺の苛立ちを誘ってきやがる。

どうも、こういう辛気臭いのは趣味じゃない。どうせなら、ガンガンのハードコアのロックといきたいところだが――




そんな苛立ちを引き摺りながら、ビートルは目的地近くの地下駐車場に吸い込まれて――





降りた俺は、徒歩で数分の所にある、腐れ縁の男の店に向かう。




季節感を疑うような夏の名残を感じさせる陽光は、いくら専用除去クリームを全身に塗りたくっている身体とはいえ、焼け爛れるような痛みを伴う。今の俺には毒以外の何物でないのは百も承知だ。





そうこうしているうちに、俺はようやく目的地――腐れ縁の男の経営するバーにたどり着いた。








東京のとある片隅―


銀座の喧騒から逃れるように裏通りに面した、地下の階段へ―


雑居ビルの地下1階、その扉に掲げられた木製の看板には黒地に白で、


『BAR Rouge(ルージュ)&Noir(ノワール)』



目の前の扉を開けて店内に足を踏み入れると、眼前には異空間。店内を横切るバーカウンターに無機質に並ぶ黒いスツール。カウンターの奥には無数の色とりどりの酒瓶がバック・バーを埋め尽くしていた。




そこはあと数時間後には――店内を照らすアンティーク調のライトが幻想的な光を放ちながら、赤と黒のコントラストが映える、落ち着いた味わい深きノスタルジックな空間へと変貌させるだろう。


そして、店の片隅では一人の女がグランドピアノでクラシカルなジャズの調べを心地良く満たし、さらに成熟した雰囲気を与えてゆくはずだ。







忙殺の日常を疎ましく思う夜にふと訪れたくなる―ここはそんな場所。


そんな店内のあちこちで繰り広げられる様々な夜間飛行。


美酒に酔いながら盛り上がるサラリーマン。


恋人と寄り添いながらグラスを傾けるカップル。


恋に破れ、一人物思いに耽る女。



そこは、まさに心を開け放つことが出来る“解放区”であり、同時に素直な心に戻れる“保護区”。


そして、相対するオーナー兼バーテンダーの男は時にカウンセラーであり、ある時は教師、哲学者、職人……場合によっては魔術師にも変身する。

そして、客の渇いた心に潤いを満たしてゆく。


だが―此処のオーナー兼バーテンダーにはもうひとつの“別の顔”がある。





漆黒の闇と共に生きる吸血鬼でありながら、“死美笑(アルカイック・スマイル)”という名の呪われし仮面の宿命を背負ったそいつは、陰で同族を葬ることすら躊躇しない暗殺稼業―“暗殺者〈アサシン〉”でもあった。








「開店準備中ですが」





カウンターの向こうで洗ったグラスを拭いていた男――白い仮面を被ったミステリアスなバーテンダー・環洋士(たまき・ようじ)は無愛想に言葉を吐いた。


その仮面の口元から漏れ聞こえてきたのは、冬の夜を思わす静謐さと底知れぬ深淵の闇を思わす声音であった。







店内では、マイルス・デイヴィスの『KIND OF BLUE』が流れていた。“帝王”マイルスの1960年代を指し示す先駆けとなったアルバムに収録された同名タイトル曲だ。




「約束の時間より1時間以上も早い。出直してもらえませんか――〈暗闇伯爵〉」


「そう堅いことを抜かすな――ハーフ・ロックだ」



俺はスツールに腰掛けた。



ハーフ・ロック――ウィスキーとミネラルウォーターを1対1に同量ずつ注ぎ、ロックスタイルで味わうその深い味わいと滑らかな口当たりが昔から好きだった。



氷を入れ、マドラーで軽く混ぜながら、やがてカウンターを滑らせるように甘美な香りを放つグラスを俺の前に置いた。




「飲酒運転ならおやめ下さい」


「俺を人間扱いするな、お面野郎」


「例え人間であろうとなかろうと、この国の規律に従うのは当たり前のことですが――」



呆れ顔の俺は一気にグラスを空けた。特有の心地好さが喉の奥を滑り落ちてゆく。






そんな俺をよそに、環はカウンターの下に隠れるように腰を屈め、なにやらゴソゴソとやり始めた。



やがて、俺の前に20センチ四方の白い箱が置かれた。上には持ちやすいように持ち手が付いていた。





「約束の品です――ご確認を」


「おっ♪……出来てるじゃないか。さすが、環ちゃん♪♪」





先ほどまでの悪態ぶりから一転、今日の俺の目的である品を目にした瞬間、俺の機嫌は嘘のように一気に修正された。




「お前さんとの付き合いも長くなるが……まさか、ケーキ作りが趣味の一つだったとはな。恐れ入ったよ」


そう言いながら、俺は箱の横から中身を台座ごと、ゆっくりと出した。




それは紛れもなく、普通のチョコレートケーキだった。


「ケーキぐらい何処でも買えるはずです。私がわざわざ作らなくてはならない理由――そろそろ、教えていただけませんか?」