「長らくの空の旅、お疲れさまでございました――“劇場支配人(マスター)”」
明かりのない漆黒に塗りこめられた、家具調度がほとんど存在しない殺風景な一室の中――何も載っていないデスクの向こうに腰掛けた、プリンス・アルバート・コートに身を包んだ長身の影に、深く頭を下げた巨漢の男は、
「…しかし、予定よりも早くお着きになられたとは…すぐにご連絡戴ければ、空港までお迎えに上がりましたものを…」
巨漢の顔に汗が滴り落ちた。
「久しぶりの日本を直接、この肌で感じたくなってな。で、あえて君達を呼ばずに独りでここまで来たわけだ。おかげで、今のこの国の現状がよく把握出来た。まさに、“百聞は一見にしかず”だな」
「…で、どうでしたでしょうか、二十年ぶりの日本(ジャポン)は?」
巨漢が恐る恐る尋ねた。
「空港から、この部屋に辿り着くまでに見て、聴いて、体感した経験は実に興味深いものだったよ――メイド服に身を包んだ年端もいかぬ若い娘が、昼日中に風俗まがいの呼び込みをしていたかと思えば、通りを歩む男も女も露出を目立たせた奇抜なファッションで着飾っていたり――随分と様変わりしたものだな、この国の文化は」
「は、はぁ…」
「だが――所詮は、低俗止まりだ。かつての我が祖国の〈ベル・エポック〉の闇には到底及ばぬよ」
眼前の長身の男のトーンが、急に変わった。それまでの、どちらかといえば穏やかな医者の優しい諭すような口調から――闇へと誘う術者のそれに……
「我々の目的は何か、憶えているか、モーリス?」
「はい――“真の恐怖の解放”であります」
「その通りだ――いつの時代も、人間は恐怖に取り憑かれてきた。恐怖の対象を遠ざけつつも、同時にそれに近付こうとする…古代は神々に畏怖を抱き、中世は悪魔を恐れ、ルネサンスは毒薬に恐怖し、大革命はさらなる恐怖政治に脅えてきた。だが、同時に人は文学や芸術の中で恐怖を繰り返し取り上げてきたのだ…これらの、一見矛盾した行為を裏打ちしている強迫観念、そこから生まれる恐怖という感情のグローバルな解放を促すのが、我が【恐怖劇場(グレート=ギニョル)】の目的であり、我々に課せられた使命」
「はい」
「私はね、その人間が自ら見い出そうとしている真の恐怖の対象を再現させようとしているのだよ」
そう言いながら、長身の男は椅子から立ち上がると、背後の窓に近付いた。
男の視線の先には、夜の闇に沈む大都市・東京の街。その象徴たる超高層ビル群はさながら、巨大な墓標のようだ。
「未だ存在が公表されていないにもかかわらず、かつては父祖伝来の恐怖の源泉であった吸血鬼どもはどうだ?…今となっては、人間にとって“善き隣人”にまで成り下がったではないか。情けない限りだよ、モーリス。では――真の恐怖とはなにか……それこそ、我々のなかに潜んでいる、見ることも予期することも出来ないものなんだよ……我々【グレート=ギニョル】は、日常という草むらの奥深くに潜む劇場の門(GATE)を開き、そこで腑分けをし、その中に隠された恐怖を引き摺り出し、それを新たに再構築してゆくことこそが大いなる使命であり、同時に〈ロスト・アンティーク〉の力を受け継いだ“世界の批判者”としての責務なのだ。見せかけの世界の外側など、我々には必要ないのだよ」
「仰せの通りです、“支配人”」
「で…この国の“演出家”はどうかね?【グレート=ギニョル】の未来を担う、金の卵は揃っているかね?」
「はい、その辺りは抜かりなく――着々と」
「よろしい。あとは、素晴らしい脚本を準備し、それに相応しい“指人形(ギニョル)”をスタンバイさせるだけだな」
「ただ…同時に、こちらには懸念すべき事も」
「ほう――言ってみたまえ」
「一つは、この国にヒーラー・ケプリがいること」
「ケプリ…あの、闇世界にもその名を轟かせている心霊治療医か。だが、それは逆に絶好の機会かもしれんぞ、モーリス」
ほくそ笑む“支配人”に対して、
「絶好の機会…?」
「そうだ。我々の演目が促す恐怖に耐えられず気絶する観客はいる。そういった観客の為に劇場が専属の医者を雇うのは別段驚くに値しない…そうは思わんかね?」
「はぁ……あ、あと、もう一つ。こちらの方がむしろ、我々にとっては厄介かと…」
「何かね?」
「この国には目下、『皮剥ぎ魔』が潜伏しています」
巨漢の言葉に、“支配人”の蒼い瞳が一瞬、不気味な光を放った。その眼は、ある遠い過去に思いを馳せているかのようだった。
その過去とは恐らく、真っ赤に濡れた鮮血の過去に違いない。
「『皮剥ぎ魔』…か。かつて、我が【グレート=ギニョル】の十八番として上演されてきた、類い稀なる作品の“演出家”。そして――罪深き裏切り者…」
『三年前のロンドン公演、五年前の上海公演でことごとく我々の邪魔をし、十年前のニューヨーク公演では確か、数十人の有能な“演出家”と“指人形”が再起不能にさせられたと聞いておりますが…」
「忌まわしき『皮剥ぎ魔』…いいだろう。今回の東京公演で、今度こそ奴を腑分けし、必ず血祭りにしてやろう」
――“皮剥ぎ魔”、か。
この名前は、あのクレイジーなフランス人どもだけではなく、俺にとっても一生忘れることは出来ない。
こいつが一体何者か。それは、いずれ近いうちにはっきりするだろう。