ある日のばんごはん

すべて娘作。


筍ごはん

肉じゃが

あさりのすまし汁

庭の山椒


最近は晩御飯まで食べて帰り、できるだけ夜の炊事はさせないようにと思うが、毎日ではない。


でも私が熱が出てから不調が続きそのまま実家に泊まったり、何かと母とべったり一緒の時間が多い1週間でその分母の台所仕事も減らせたと思う。

また私が弱って、母は逆にシャキッと元気になったように見えてたのだけど、炊事が減ったからか?とも思えたり。

でもきのう丸一日離れて電話のみとなると、とたんにいっきに急降下。


私の適当な受け答えにたびたびキレる母。


腰が痛くて息苦しいことに共感してほしいのだ。

でも私はどうしても、大変だったなあ。と言えない。認めたらどんどんそうなってしまう。という恐れが消えない。

いじわるな娘と思ってるだろうけど何と思われても結構。


他人のお年寄りなら適当になんでも言える


このところ、私の友人のお母さんたちが、脳梗塞で倒れたり、癌で手術して治療で苦しんでたり、そんな話ばかり聞いている。


突然寝たきりになって食事も話すこともできなく、いつ回復できるかもわからない。寝たきりでも生きていかなきゃいけない。


またがん治療の影響でヘアスタイルも好きにできず、副作用で味覚障害があり食事もお出かけも楽しめない。


また、大腸がんで人工肛門となる夫のお世話が大変な母の友人もいる。


そんな人が身近にいるのだ。


比べればよいという話ではないが、

母はこれら以上のことは関係なく、まだまだたくさんのことができるのだ。


どうひっくり返して考えても、ありがたいと思わないといけない、と私は思う。


また、こころからありがたいと思うことによって本人の身体もラクになっていくと本気で思っている。


不満ばかりを思っている身体はどんどん硬くなって痛みも大きくなるのだ。

これが悪循環になる。

身体の痛みが不満を生み、その不満がさらなる痛みをうんでいく。


自分のできる範囲を知り、他の人の役にたつことを考えながら生きていく。


実際結果を残さなくても、本当に役に立たなくてもよいのだ。そうしようと、そうなろうとし続けることが大事なのだと思うのだけど、残念ながら私の力ではまだ伝えられてない。


そう思うだけで、そのほうが身体にもよい影響が起こり、幸せになるのだと。


こころと身体は繋がってる。


私は産んでもらって、大事に育ててもらって、尊敬しつつも嫌いな面もあり、この年になって笑えるようにもなって、感謝できるようにもなって、

これまでの彼女の父に対するいろんな悩みや怒り、悲しみも見てきて、

残りの人生はなんとか穏やかににこやかに、過ごしてほしいだけなんだけど。


私は何をやってるのか、と無力感がまとわりついてくる。

希望が見えたら急降下、この同じことの繰り返し。