野球を通じて得られる、かけがえのないもの | びっくりするほど上手くなった!名古屋のバッティングスクール「Count23」

びっくりするほど上手くなった!名古屋のバッティングスクール「Count23」

名古屋にあるバッティングスクール「Count23」のブログです。
小学生・中学生などの少年野球選手がチームで活躍するための技術向上を目的とした野球スクールです。バッティング、ピッチング、キャッチボールなど多彩なコースでチームの中心選手に育てます。

昨日、テレビで朝に放映されている東海テレビの

「ぴーかんテレビ」(ローカル番組?)で


「車椅子のアーティスト ~白鉛筆と私」


というタイトルで私の高校時代の先輩である、間瀬英樹さんが出ていました。


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この先輩は私が入学したときに卒業されたので

一緒にプレーしたことはありませんが、

中村ファミリーとして中村監督の家に

集まるメンバーのお一人です。



この間瀬さんを初めて見たのは、私が中学生だった

昭和55年のアサヒグラフから出ていた

「甲子園の道」という本の写真でした。


この年は2年生の工藤さん(西武ライオンズ)がエースで、

準決勝で享栄高校に敗れて甲子園出場を逃しましたが、

ショートの鴻野淳基さんが西武にドラフト1位指名されました。



間瀬さんはファーストのレギュラーで、

その風貌は剃り込みが入り、眉毛がなく、とても恐ろしい顔でした。



中学生で既に名電に入学が決まっていた私は、


「こんな怖そうな人がいるチームはやだな・・・・」


「とんでもない高校に決めちゃったな・・・」


と後悔したことを憶えています。




間瀬さんは、私が現役の時にグランドにも何度か指導に来ていただき、

風貌とは裏腹に、とても優しく指導してもらいました。



その間瀬さんが車の事故で車いすにの生活になったというのは

噂では聞いていましたが、その姿を見たのは

中村監督の家に集まったとき、

間瀬さんは自動車に乗り、車いすで来られていました。



自動車に付いている車の車いすの操作ボタンを器用に操作し、

車いすを降ろして運転席から車いすに乗り移ります。



中村監督の家は1階が趣味の作業場や書庫があり、

2階がリビングになっています。


2階に上がる階段は間瀬さんを背負って上がらなければいけません。


間瀬さんを背負うのは、その時にいる「下級生」の役目がお約束で、

私も何度か2階まで背負って上がったことがありますが、

高校時代を思い出すほどつらいです。



間瀬さんがこのような状態になったのは、

自動車事故が原因だったわけですが、

当時、間瀬さんは運送会社を経営しており、

自らもハンドルを握ることもあったようです。



社員に無理をさせまいと、間瀬さん自身が無理をして運転していたところ、

大型トラックに追突し、瀕死の状態になりました。



医者からは「一生意識は戻らない植物人間」だと宣言されたそうでしたが、

やがて意識は戻り、それからリハビリを重ね、車いすで

生活できるようになりました。


この回復ぶりは医者自身も驚いたようです。


間瀬さんはそんな自分の姿を悲観し、ある日、病院の屋上で

自殺も考えたそうですが、立ち上がって飛び降りることもできないので、

自殺を諦めたとおっしゃっていました。



いまだに両足と左手の麻痺がありますが、誰の手を借りることもなく

ほとんどご自分でされます。



食事の時も私が大皿から取り分けようとすると、


「いらんことせんでいい!自分でやれるから」


と怒られたりします。



間瀬さんが車いすの生活になり、私も含めて周りの人は


「不自由だろうな・・・」


と思いますが、当の間瀬さんは


「こんな生活、高校時代の3年間と比べると全然平気だ。」


「あの頃のつらさは、こんなもんじゃなかった!!」


とおっしゃっていました。




東名高速道路の守山パーキングエリアは

愛工大名電野球部OBの名所となっており、

守山パーキングエリアに車を止めると

愛工大名電グランドが見えます。



間瀬さんを始め、愛工大名電野球部OBの多くは

社会に出てつらいことなどがあると、仕事の途中で

守山パーキングエリアに車を止めます。



そして、愛工大名電グランドを眺め、あの頃の熱意を蘇らせて

モチベーションを高め、日常生活に戻ります。




間瀬さんも仕事柄、東名高速道路を走る機会が多く、

守山パーキングエリアに車を止め、グランドを眺めては

モチベーションを高めていたそうです。



中村監督が野鳥の絵を描いているのを参考にし、

間瀬さんも鳥の絵を描き始めるようになり、

今では各地で個展を開くようにもなりました。



また、ボランティアで子供たちに絵の指導もしています。



元々スポーツマンなのですが、野球は無理なので、

愛工大名電高の野球と並ぶお家芸の一つ、卓球を始められ

国体に出場するなど活躍し、

現在はパラリンピック出場を目指しています。




車いすの生活が落ち着いた頃、

間瀬さんは今度は白血病にかかり、

一時は危篤状態にまでなりました。



監督や後輩の私たちも病院に駆けつけましたが、

それでも強い精神力で乗り切られました。



今は再発を抑えるために強い抗がん剤を使用しています。


それでもまだ


「高校時代のつらさに比べたら、

抗がん剤の副作用も楽勝、楽勝・・・」


なんておっしゃっています。


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愛工大名電高野球部時代のつらいことを

やりきったことで、精神力も養われたのでしょうか。


間瀬さんの生き方は、普通では真似できないことばかりです。




意識を失うまで走る、何千本ものノックを受ける、

他人が寝てから隠れてバットを振るなどの

苦しく、自分との戦いを続けてきたことで

このような精神力が付いたのでしょうか。



健常者である我々も負けてはいられません。


健康であることに感謝して力強く生きていきたいと思います。



バッティングスクールの選手たちも、間瀬さんのような

強靱な精神力を身に付け、厳しい社会を勝ち抜いて

いってもらいたいと思います。


選手向けに間瀬さんに講演会をやってもらいましょうか。



あなたも一緒に野球をやりませんか?

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