【心的外傷と回復】恐怖〜侵入の纏め



こんにちは村上です。
ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』から一部抜粋して話しています。
本書は、戦争で受けた心の傷と、レイプや虐待で受けた心の傷は、同質のものであり、回復にはPTSDへの理解や、専門的な治療、セルフケアが必要で重要であると説明しています。
少しでも生きづらさが楽になるようなヒントになればと思います。

心的外傷を受けた刹那の消せない、まるで刻印のような症状を反映する「侵入」のページ、p52〜61から参照した8回分の投稿まとめです。



心的外傷と回復
第二章 恐怖 p.52  侵入

 危険が過ぎて長時間がたっても、外傷をこうむった人はその事件を何度も再体験する。それはあたかも事件が現在くり返し回帰してくるかのようである。彼らは人生の正常な軌道に戻ることができない。外傷がくり返しそれを遮るからである。まるで時間が外傷の瞬間に停止したようである。外傷をこうむった瞬間は異常な記憶形態の中にコードされ、何の誘因がなくても意識に現れる。覚醒時にフラッシュバックとして現れることもあり、睡眠中に外傷性悪夢となって現れることもある。一寸した、どうみてもさほどの意味があるように思えない痕跡が外傷時の記憶を呼びさますことがあり、それもしばしばもとの事件そっくりの生々しさと感情的迫力を以て戻ってくる。こうして、正常ならば安全な環境をも危険と感じるようになることがある。生存者は外傷の痕跡に出会うことはないという保証はありえないと思っているからである。



心的外傷を受けていない人にとって、この説明はいま一つ伝わりづらいのかもしれません。
しかし、受傷したという自覚のある人には、妙にリアリティのある感じかもしれませんし、無自覚な人には、自分の苦しみの「なぜ?」に説明をつける文となるかもしれません。

恐怖する体験後に、自分のなか「だけ」でくり返される同体験が恐ろしいのは、自分にしかわからないし、自分でもわからないという、混乱もあるからなのかもしれません。

他者と共有しづらい体験ですし、ことばにすることで恐怖が蘇ってくるかもしれないという緊張や切迫感が、ますます心的外傷から自分を遠ざけがちかと思われます。

このため、近づけないからあたかもブラックボックスなままになる人もいて、そのフタを開けることにためらいや恐れが重なり、気がつけば何十年も放置せざるを得なかったというケースも稀ではないように思います。

それに伴って、生きづらさも強さを増していくような、体調にも影響があり悪循環から抜け出せないことも“普通に”あり得ます。

そんな心的外傷との付き合い方がよくわからないから、人を避けたり、引きこもったり、依存したり、怒りを爆発させたり、人間関係のリセットを繰り返したり、自殺企図が止められないなど、社会から孤立していくという、心底望まない生き方しかできないという人々を見てきました。

「侵入」の症状をまず知ることが、心的外傷という自分にしかわからない苦しみを、自分のものとして解決していく手がかりになるかもしれません。



p.52  侵入 10行目

 外傷は、生きのびた者の人生にくり返し侵入することによって正常な発達経路をとめてしまう。ジャネは自分が担当したヒステリー患者は「固定観念」に支配されているという書き方をしている。フロイトのほうは、第一次大戦後の戦闘神経症の圧倒的な証拠を前にそれを何とか理解しようとして「患者はいわば外傷に固着しているのである(中略)このことは私には何ら驚くに当たらない15」という感想を述べている。

15.S.Freud,"Beyond the Pleasure Principle,"[1922]in Standard Edition,vol.18(London:Hogarth Press 1955):7-64,引用は13.



心的外傷を被り、なんとか生き延びられた人を、その体験がくり返し“勝手に”侵入してくるイメージです。

せっかく命を守ることができたのに、その体験による外傷が、治療しない限り苦しめる。

驚愕〜戦慄〜緊張〜動揺〜無感覚〜…

このような“日常的でない”感覚や感情が、突然、起きていても眠っていても侵入してきたら、たまったものじゃないと思われます。

生きた心地がしませんし、消耗して生命維持も危ぶまれてもおかしくないのではないでしょうか。

被害者は、好き好んで固定観念をもちたいわけじゃないし、外傷に固着などしたいわけがない。でも、意識や根性、信念によって侵入してくる心的外傷を止められないため、苦しいのだと考えられます。

こんな苦しみのなかでは希望をもつことは困難かと思われますし、もし、希望をもちながらも前に進もうという気概ある人がいるなら、どうか無理をしないで頼ったり助けを求めることを、自分に許可してあげてほしいなと思います。

ひとりですべてを抱え込むには、絶えることのない気力や体力が必要かと思います。どうか倒れませんように。




p.53  2行目

 外傷性記憶にはふつうにはない性質がいくつもある。外傷性記憶は通常の成人型の記憶のように言語によって一次元的な(線形の)物語にコード化されない。もしされればその人が生きつつある人生物語の一部に化してしまえるだろうに ━︎━︎━︎━︎ 。ジャネはこの相違を説明しようとして、こう言っている。


 [正常な記憶は]あらゆる生理的現象と同じく、一つの行動である。本質的にそれはストーリーを語るという行為である。(中略)ある状況をきれいに清算するには、運動という外向けの反応だけではいけないのであって、内的反応も必要であり、われわれが自問自答することばを介し、事件を自分と自分以外の人々に語って聞かせられるような物語(リサイタル)に組み立て、この物語をわれわれ個人の歴史の一章という座を与えてはじめて清算できるのである。(中略)したがって厳密に言えば、事件の固定観念を抱えている人は「記憶」を持っているということはできない。(中略)それを「外傷性記憶」などというのは便宜上のことにすぎない17。

17.P.Janet,Psychological Healing,[1919]vol.1,trans. E.Paul and C.Paul(New York:Macmillan,1925),661-63.



心的外傷による影響を見事に表していると個人的には感じます。感じるからこそ「外傷性記憶」と呼ばれる“心の傷”があるとするなら、その得体の知れない何かが、受傷者を苦しめるのであって、憤りのような感情を私のなかにも感じます。

カウンセリングをしていれば、外傷性記憶に苛まれ、対処法などわからないなりに自分で少しでも気持ちを和らげようと苦心される人たちを見てきました。

流される涙のワケは、本人の痛み以上の何かの影響があるだろうと想像はすれど、怖くてなかなか近づけないものかと思います。

本人のなかでも、心的外傷を被った体験以外の記憶は正常に話せたり振り返ったりできるので、なぜ外傷性記憶の部分だけに過剰反応したり思い出せなかったりするのか理解できないため、混乱するときもあります。

見えるようで見えないし、見えているようで本当に見えているのか確信がないし、見えているけれど全く他人事のようで、今ひとつ自分のものにならないし自分の一部だと認めたくない、そんなハッキリさせたくないような葛藤が出てくる人もいます。

自分の体験であり、普通ならそれに伴う記憶があるはずなのに、エラーやバグみたいな変な感覚となって、本人としてもどう扱うことができるのかわからないと、戸惑いもあるように見受けられます。



p.54  5行目

 外傷性記憶は言語による「語り」も「前後関係」もない。それは生々しい感覚とイメージとの形で刻みつけられているのである19。ロバート・ジェイ・リフトンはヒロシマの生存者を研究した。これは軍人とともに一般市民をも襲った災害であるが、外傷性記憶とは「消去不能のメッセージ」であり「死の刻印death imprint」であると述べている20。しばしばワンセットのイメージが体験を結晶化し、その中にリフトンのいう「究極の恐怖」がぬりこめられている。断片的な感覚、前後関係抜きのイメージに対して強烈に注意が集中されるため、外傷性記憶は通常の現実を越えた強度の現実性を帯びる。

19.E.A.Brett and R.Ostroff,”Imagery in Post-Traumatic Stress Disorder:An Overview,"American Journal of Psychiatry 142(1985):417-24.
20.R.J.Lifton,”The Concept of the Survivor,"in Survivors,Victims,and Perptrators:Essays on the Nazi Holocaust,ed.J.E.Dimsdale(New York:Hemisphere,1980),113-26.


この説明は、ありありと心的外傷が被害者に与えるダメージを伝えているように思います。

通常の記憶とは切り離されているような、独立しているような生々しい感覚が、いつ何時蘇るかわからないという恐怖がありますね。

他者と共有することは難しいですから、自分のなかだけでくり返される悪夢が苦しめる。

覚醒状態になると、起きていても寝ていても安心できず落ち着けないので、疲れていても身も心も休まりませんよね。

助けを求めようにも説明できないというか、ことばにしづらいですし、内容によっては恥ずかしすぎて誰にも言えないと思います。

ただ、いつも消すことができない心的外傷からのイメージが、またいつ何時、自分を襲ってくるかわからず不安や緊張があるので、何かに依存して快感に我を忘れてしまうしか、防御策はないと思っても致し方のない気もします。

本当なら、明るく振る舞って楽しみながら人生を謳歌したいという、誰しもが自然に求める欲求があるかと思われますが、心的外傷によって、挫かれ絶望や孤独に呑み込まれて出口が見つけられないと訴える人を見てきました。


本人にとっての「消去不能のメッセージ」への対処はどうすればよいのでしょう?



対処としては、語ることによって独立した外傷性記憶を自分の記憶の一部であるように、あたかも自分の手中にあるかのような感覚にまで“なじませる”ことかと私は考えます。

独立しているかのような感覚であれば、コントロールできないため、外傷性記憶が蘇るタイミングなど予測不可能だと思いませんか?

それなら、なじむまでは不快な感覚があるかもしれませんが、自分のなかに起こる暴れるような衝撃や恐怖を、少なくとも「あるものだ」という具合に確認できる。

あるものだと確認できれば正体不明の恐怖する変えられないイメージは、いつのまにか、もしかしたら変えられるかもしれないと、だんだんと希望をもてるかもしれない。

苦しいのは、自分のなかだけで勝手にくり返される痛みや恐怖を伴った外傷性記憶かと思いますので、自分のペースで少しずつ我がものと認められるような感覚になっていければ、消去不能としか思えなかったメッセージが、遠くに退いていくように思われます。



p.59  4行目  

 再演には無気味なところがある。意識的に選択した場合でも不随意感、つまりしたくてやっているわけでないという感じがある。危険でない場合でも、それに駆り立てられ、それはしつこく離れないという性質がある。フロイトは外傷体験がこのように何度も立ち戻って侵入してくることを「反復強迫repetition compulsion」と名づけた。フロイトは当初これを外傷体験を消化し乗り越えようとする方策と考えた。しかしこの説明では彼も満足しなかった。それでは再演の持つ、彼のいうところの「デーモン的」な質をどこか捉えそこなっている。というのは、反復強迫は意識の意向を無視し嘲笑し、実に頑強に変化に抵抗するので、フロイトはこれが適応的な、生命肯定的なものであると説明するのをあきらめ、「死の本能」という概念をつくらざるを得なくなった31。

31.Freud.“Pleasure Principle."


嫌なのに、求めていないはずなのに、
いつも不快な結果になるような
人間関係をくり返すことはないでしょうか?


同僚、友人、パートナー、夫婦など
痛みを伴なうような
不快な関係性になってしまうことがあるなら


心的外傷があるのかもしれませんし、

親との関係に何らかの原因があるかもしれません



p.59  15行目  

ジャネは「個人が外傷体験を”同化“し”清算“する欲求」という表現を使っているが、これを完遂すれば「勝った!」という勝利感が生まれるという。彼のことば遣いをみれば、ジャネは表現こそしていないが、外傷が人の心をきずつける本質は孤立無援感にあるのだと認識していること、そして回復には自分には力があり役に立っているのだという、力と有用性との感覚が必要だということがわかっていた。ジャネによれば、外傷を受けた人は「難しい状況に直面しつづける。それはそこでは自分が満足できる役割を演じることができないような状況であり、それへの適応が不完全でありつづけるような状況であり、だからそういう人は適応の努力をやりつづけてやめられないのである32」。

32.Janet,Psychological Healing,603.



100年以上前に無意識を発見して、トラウマなるものがあるようだと研究していたジャネ。現代とかけ離れた超アナログな時代においても、「個人が外傷体験を”同化“し”清算“する欲求」を完遂できれば、勝利感がもたらされて、自分にしかわからない(わからない=無意識)心に傷があり、ソレに向き合っていく過程にも意味があり、孤独の先には勝利という自分だけが感じられる達成感のような絶頂を目指して努力することにも、手探りであても保証もない心という原野を往くようで個人的に感銘を受けます。まさに臨床から視る洞察の極みなようにも感じられます。




p.60  18行目  

 外傷を再体験することはその支配者となるチャンスを与えるということはいえるだろうが、外傷後生存者はこのチャンスを意識的に求めているわけでもなく、まして歓迎してなどいない。逆である。彼らはそれを恐れそれに脅えている。外傷体験の再体験は、それが侵入的な記憶であろうと、夢であろうと、行動であろうと、もとの体験が持っていた強烈な感情を伴ってやってくる、それもそのままの強度で ━︎━︎━︎━︎ 。外傷後生存者は怒りと恐怖とに長期間たえまなくもてあそばれる。この怒りと恐怖とは、ともに通常の怒り、恐怖とは別個のものである。それは通常の感情体験の範囲の外側にあるものであって、感情を踏みこたえる通常の能力を圧倒し麻痺させてしまう。
 外傷体験の再体験はこのように強烈な情緒の混乱を誘い起こすので、外傷を負っている人間はできるだけこれを避けようとする。侵入的な症状を囲い込んで隔離してしまおうとする努力は、その意図こそ自己防衛的であるが、外傷後症候群をいっそう悪化させる。すなわち、外傷の再体験を回避しようとすればどうしても意識の狭窄に陥り、他者とのかかわりから手を引き、人生が貧しく殺風景になる。



なぜか、怒りはあるのに自分の感情じゃない感覚はないでしょうか?

ワナワナしてゾワゾワして体が縮こまるような、爆発してしまいそうな、押し潰されそうな、引き千切られそうな感覚。パニックに陥り無感覚になり恐怖や絶望にフリーズしてしまう。

もし、そのような状態に心身共に繰り返しなってしまうとしたら、生きていく気力は削られ明日を夢みることなど途方もない気がして立ち上がれなくなっても、不思議じゃないと思います。

そんな堂々巡りの心的外傷を、親から受けてしまったのだとしたら、あなたはどう思われますか?








みすず書房ホームページ


※当記事の参照元
心的外傷と回復 ジュディス・L・ハーマン 著 中井久夫 訳 小西聖子 解説/1998年9月10日 第10刷発行/みすず書房/400ページ/6,600円+税





担当心理カウンセラー
村上なおと

カウンセリングサロン Anela
札幌市中央区北3条西18丁目2-11 ブランノワールW18.exe 301号
・地下鉄東西線の西18丁目駅より徒歩8分


☆お陰様で13年目
皆さまのお陰です。
ありがとうございます(^人^)感謝♪︎
 












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(カウンセリング内容)

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先日、札幌市のど真ん中で🦊ちゃん発見しました🤣