ロンドン在住の元CA(スチワーデス)のブログに

金タマとか勃キとか危ない用語がバンバン出てくる

私も小学生の時のかる~いHな思い出を一席

例のキノコ中毒を起こした県営住宅での話

ある日曜日の午後我が家に近所のお父さん方が

56人集まってこの地区に関する何かが

話し合われていた。

私と弟と母は襖を隔て隣の部屋で

静かにしていた。

しばらくして重要な話も終わったのか

場はくだけてきた

とあるお父さんが

「私がいた中国のある村ではね」

と話し始めた。

戦後中国から引き揚げてきた人は

私の周りにも少なくはなかった。

話は続く

「新婚の処女を前の晩にお寺の坊さんが

試すんだそうですよ」一同「ヘーそうなんですか」

私はそれを聞き子供心に「そんなバカな!」

と思ったが

場は一気にHな雰囲気になっていった

と同時の母に

私と弟は家の外につまみ出された。

「チェこれから面白くなりそうなのに」

と渋々外に出た。

日曜劇場で「南極大陸」というドラマが始まるらしい

そこに登場するオレンジ色の船が

南極観測船宗谷である



その「宗谷」では、ほろ苦い思い出があった。



私が小学生の頃、宗谷はまさに日本のヒーローだった。

宗谷が南極に向け出港する時はスペースシャトルが

日本人宇宙飛行士を乗せ飛び立つほどの歓喜

いや確実にそれ以上であった。

なんせ今ほどニュースのない時代

それに日本は領土拡張に失敗した敗戦国

未知の大陸南極に国民は夢を見たのだ。

もちろん小学生にとっても宗谷は希望だった。



戦艦長門は米国に接収され原爆の標的艦となり

哀れな末路をたどった。


戦後の日本で接収をまぬがれ残った船はわずかであった。

その中で戦中から測量船として働いていたのが宗谷であった。

戦時中、宗谷は占領した南の島々の港湾を測量していた。


交戦を交えたのは一度だけで

たまたま飛来した米戦闘機と銃撃交戦し

何人かの乗組員が死傷し、父も手の甲を敵銃弾がかすった

それでもあの激戦の太平洋戦争でほとんど無傷で帰還した
幸せな船だったのである。

その宗谷に私の父は乗務していたのである.



私はその事を終業後の中庭の掃除の時間中に

M医院の御曹子(ブログに過去2回登場)の

M君他3人の前で話してしまったのである。



それはスペースシャトルに自分の父親が乗ったことがあると

言うに等しい事だったのである。

いやちょっと違うかな?違うね!


私はその日から嘘つきのとんでもない野郎に

なり下がってしまった。

ハンサムで頭が良くクラスのリーダーのM君にしてみれば

Kenroごときにそんな話があるはずがないと

云うことだったのだろう。



以後私は宗谷の話はした事がなかったのである。












翌日、画家からの電話を妻が受け

数日後にまた画家の家を訪ねる事になった。

その日は豆大福を持って行った。

値段は安いがわざわざ町田まで買いに行ったのである。

私も妻も金子国義の部屋がいかに素晴らしいかは

本などで見て知っていたので心弾んだ。

呼び鈴を押すと若い男の子が出てきた。

私はまた金子がゲイであることも知っていたので

その男の子をその様に見たが真実はどうなのか・・

家はやはり「ハウス」仕立てで玄関のたたきは

非常に狭く、入ると即居間という造りである

居間は2つあり2つの居間を別けるように

中央に2階のアトリエに続く階段があった。

その階段の右脇にも、もう一つ小部屋があった。



どの部屋も壁には自作の絵やグラフ雑誌から

切り取ったと思われる写真とそれらのコラージュで

隙間なく埋め尽くされた作品群が美しく調和していた。

こういう飾り方は、

私も含め大部分の日本人が苦手としていて

普通はゴミ屋敷然としてしまうものである。