本当は、昨日からシアトルに次女の最後の試合であるトーナメントに行っているはずだった。
が、
次女は、用意しなかった。
金曜日の朝、家を出る前にも、
帰宅する前に連絡してきたときにも、
帰って家に着いたと連絡してきたときにも、
私が家に着いたときにも、
夕食後くつろいでいるときにも、
次女が部屋に引き上げて一時間して、見に行ったら身を放り出して本を読んでいるときにも、
9時前、いい加減にお風呂に入りなさいと言ったときにも、
9時半にいい加減にお風呂に入りなさいと言ったときにも、
10時にいったい何時だと思っているの、お風呂に入って、寝る準備しなさい、と言ったときにも、
10時半にいい加減にしろー!!!と怒鳴ったときにも、
旅行の用意をしなさいねと繰り返し、伝えた。
しかし、11時になっても、風呂にも入らず、準備をしなかった。
いい加減にイラついている私に、準備しないってことは、行かないからね。と言われ、次女は憎まれ口を叩いた。
そして、叱られ、泣きわめき、その当座だけ謝った次女に、私は、感謝の念をもつこと、尊重すること、心から謝ること、心から反省していることを肝に銘じて行動に示し、試合に本当に行きたいのだと私を納得させれば行かせてあげる、と言った。
しかし、翌朝、次女は「出かける」と言っていた時間を過ぎても起きてこなかった。
起きてきても、泣きはらした自分の顔を見て、「こんな顔じゃ行きたくない」と駄々をこね、最初の試合に間に合うぎりぎりの時間までごねた。
最初の試合に行くタイミングを逃したと知って、次の試合に間に合うように家を出たいと言い出したが、粛々と反省した態度で用意する様子は見せず、そうせねばいけないことを私や長女から言われれば言われるほど足をひきずった。
「もう謝った」「もう反省した」「もう準備済んだ」と怒気を含んだ声で言い、ベッドにもぐりこんだり、本を読もうとしたりテレビを見ようとしたり。反省している様子を見せなかった。
そして、次の試合に間に合うタイミングも逃した。
そして、私はホテルをキャンセルした。
ホテルをキャンセルしている私を見て、自分の張った虚勢と意地がどういう結果になったのか初めて身に染みたらしく、さめざめと泣きだした。人に聞かせようとする大声の泣きではなかった。
ピッカピカに晴れた美しい土曜日はこうして、人生の汚点として我々三人の記憶に残ることとなった。
チームは、昨日の夕方の二試合のあと、ピザとプールでパーティをする予定であった。
みんなで、この小旅行を心から楽しみにしていたのに。
チームは、あと二試合。昨日の二試合は両方とも負けた。今日の最初の試合が、あと少しで始まる。国境を越えて、何時間も車を走らせた先の試合会場で。そこに、私たちは、いない。
情けなくて。
次女は、行動を直すには、反省するには、何をしたらいいかわからない、と主張し、考えろと言われて、何を考えたらいいかわからない、と主張した。
これは、ここで生んで育てた自分の子供たちや周囲の社会や親子そして学校に対して、現地に住む他の日本人の親も、私自身も、一致して感じていることだが、「反省する」という観念自体を教えることが、ここでは至難の業である。尊重心、畏敬の念、感謝する心、協調性といった、細やかな心遣いに必要な観念は、浸透させるべき当たり前のこととしてではなく、自由意志のオプションとして育つ。そればかりでなく、子供なのに、学ぶこと自体、そして学校教育でさえがオプションである。反省するという当たり前だが面倒な概念などは、覚える場が全く存在しない。大人が知らないから、教える者も存在しない。
一方で、嫌なことや面倒なことは、避けて構わないと徹底して教わるのである。嫌で面倒なことの最たるものとして、「反省して行動を改める」などということをここの社会で育つ子供に教えるには、子供の行動が直撃する対象である親が、叱らねばいけない親が、漠然とした観念自体を、こう考えるものだ、行動はこのようにしなければならない、と単語の意味まで一つ一つ取り上げて、説明して教えるしかない(言語は関係ありません。反省する環境自体が無い場合、日本語はおろか、こういう状況で使われる英単語自体が、子供の日常生活の中に出て来る機会がないので子供は意味を知りません)。
周囲の雰囲気があって、第三者が説得される場を目撃した上で自分が言われる段になって受け止める場合と、本人の落ち度で叱られる時しか経験しない場合では天と地ほどの差がある。しかも、子供を叱るゆえに敵対心を持たれる立場の親が、本人の感情が激高する状況下で、激高している子供に向かって、反省とは何かを噛み砕いて説明するこの難しさ。
長女でも大変な思いをしてきた。しかし、軽率で直情的で、このような確執が小さいスケール(時々巨大)で年中起きるが原因は割と単純な長女と違い、頭脳派でプライドが高くウルトラ級のあまのじゃくで意固地な次女には、プライドとあまのじゃくと意固地の壁が厚すぎて、到達できてないんじゃないかと思うのである。
そして、昨日子供たちと話していて、子供たちにとって母親としての私は、別に一緒にいなくてもいい存在なのだということも知った。子供たち自身、それには気づいていなかったようだった。子供たちにとっては、カナダにいられれば、それでいい。みんなで協力して少しでも幸せに暮らす思いも願いもあまり重要ではなく、二の次であること。
私の給料で、何とか暮らせて、子供たちを大学にやるなら、今の大学の職員でいれば(この先労使協定が変わらない限り)学費が無料になる。カナダ生まれでカナダ育ちの子供たちには、カナダで生活するほうが幸せかもしれないと思ってここまで頑張ってきた。が、
そうだよね。子供にとっては、親が子供の幸せを願う気持ちなんて、どうでもいいことだよね。
この先、どうしようかな、私。独りぼっちで、疲れ果てたよ、正直。