カップ麺やファーストフード店が登場し始めた新しい食文化の幕開け時代でもあった。
食べ物には何不自由することなく育ったが、
私の両親は出された食べ物を残すことには非常にうるさく、
忘れられないシーンは朝食を何が何でも食べなければ幼稚園に行かせて貰えなかった事である。
子供の頃、上顎に残るえぐ味がイヤでホウレン草が食べられなかった私は、
毎朝のように出されるホウレン草のお浸しと格闘した。
ぴたりと横に座って、半ばイライラしながらこちらを見据える母を尻目に、
一度口に入れたお浸しのかたまりを出そうか飲み込もうか永遠に悩んでいたように思う。
でもそのお陰で今では、「そこは食べられないんじゃない」とたしなめられるほど
何でも食べられる食いしん坊に育った。
もう一つ思いで深いシーンがある。
我が家の休日にはよく父が鶏ガラスープからラーメンを作ってくれて、
それが知人への自慢でもあった。
それだけに当時売れ始めたカップ麺なんぞは以ての外。
それでも幼い子供心には食べてみたいという魅力もあった。
勇気を出して告白したある日、父は「一度だけだぞ」と言って、
作ったラーメンを丼からマグカップに少量分け入れ、ファークを突き刺し、
「カップ麺だ。食べてみろ」と言って手渡してくれた。
カップからフォークで啜るラーメンが新鮮で、十分満足したのを覚えている。
いまだにあの時の味を越えるラーメンとは出会っていない。
今の子供達はどんな食のシーンを記憶に残していくのだろうか。
ファーストフード、ファミリーレストラン、コンビニ食・・
どこか画一的な食風景が蔓延する中、食材の持ち味、行事食の楽しみ、
食べ物のありがたみなど、
そうしたことを心に刻む食のシーンが少なくなっているように思えてならない。
今の子供達が成長してから「食と人生―81の物語り」のような書物と出会っても、
世代を越えて同じように機微に触れた感動を得ることができるのだろうか。
心に残る食のシーンをどれだけ重ねていくかが、
人としての厚みや重みのある人生を送ることにつながるように思える。
時に自分の「食の思い出」を紐解いて次世代に伝えることも重要なのではないか。