車椅子の息子がいます。彼はちょうど7年前の7月、白血病と診断されました。

2017年7月11日夕方下広島から1本の電話が来ました。すぐに広島の日赤病院に来て欲しいと。
今から静岡から広島へ向かっても夜の10時か11時ごろになってしまうが、それでも今日中に行く必要があるのかと尋ねると遅くなっても来てほしいとドクターが言ってると。
これは大変なことになった。しかし不思議なことに脳はなんとなく冷静で、これとこれとこれは持っていこうと、てきぱきと処理をしている。けれど、足元は地に足がついているのかわからない。何とも言えない感覚だったのを覚えている。

新幹線にとりあえず飛び乗って広島まで向かう。重大なことが起きた事は、察しがつくが、それでもそれぐらいで済んでよかったと言う事であって欲しいと必死で祈っていた。

広島駅に着くと試合が終わったばかりなのか、赤ユニホームのカープファンが家に帰ろうとごった返していた。集団とは逆方向にタクシー🚕で病院へ向かう。数時間前までは、私もあんな風にのんきにに暮らしていたなあなどと、眺めつつニヤリ

病院に着くと息子の病室へ案内された。無菌室ビニールのカーテン越しに彼はいた。少し困った顔をして、私に笑いかけた。

大丈夫‼️絶対に治すと決めて一緒に頑張ろう❗️

彼の顔を見て、私はこの言葉を発した。私は根拠のない自信でもいいから、絶対に治る。直してみせる。と自分にも言い聞かせていた。

あきらめない、あきらめきれない。ここまで彼がしてきた努力は何になるんだ。

彼はそれは甘く透き通ったトランペットを吹く。不器用な彼は、大学生まではたいして上手ではなかった気がしたけれど、大学大学院、そしてスウェーデンに留学したときにも、トランペットのレッスンを続けていたようで、気づいたら彼らしい、優しい響きのトランペッターになっていた。なりたかった大学教員のポストもやっとで獲得し、これからと言う時だった。

ドクターから説明を受ける。病名は、骨髄異形成症候群。リスクの高いタイプの白血病で、抗ガン治療では完治せず、骨髄移植をしなければならない。かなり難しい病気だと言われた。

病室に戻ると、息子が、ネットで生存率を調べたらかなり低いんだけど、俺大丈夫かなと言う。

馬鹿言ってんじゃないよ。生存率なんてものは、たくさんの患者の統計的なもので、あんた1人のこと考えたら生きるか死ぬかの50パー50パーなんだよ。私たちがこの生きる50パーにかけて、絶対治すと決めてやっていくんだ。

できる事は何でもやっていく。今できる最善の事を。

こうして何回もの、50パー50パーを経て7年。

何とか仕事にも復帰させてもらい、頑張っていますニコニコ

ちょうど7年の節目に、当時のことを思いだしながら、随時ブログに記していこうと思います。