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身体に障害を持ちながらも、愛と希望を歌い続けるゴスペルシンガー、レーナ・マリア氏の記事を紹介します。



水泳選手として世界選手権で数々のメダルを獲得。スウェーデンで一番の音楽大学で学び、ゴスペルシンガーとしても世界的に活躍。

様々な偉業を成し遂げたレーナ・マリアという女性。

このように輝かしく活躍するレーナは、実は両腕がなく左足も半分しかない、重度の身体障害者である。

このような不自由を越えて、彼女を輝かせる原動力となったものは、一体何だったのだろうか。


1968年、レーナ・マリア・ヨハンソンは、スウェーデン中南部の村、ハーボで産声を上げた。

しかし、その誕生は医師に戸惑いを持って迎えられた。

その小さな赤ん坊には両腕がなく、左足は右足の半分くらいの長さしかなかったからである。

この時、レーナの母親はわずか17歳。子供の障害を受け入れられず施設に入れる親もいるなか、この幼い母はレーナを見るや否や、こう呟いた。

「可愛い!」

両親はレーナを喜んで自らの手で育てることにした。

敬虔なクリスチャンだった両親はレーナにいつも、「あなたは価値ある存在です。私たちはあなたをとても愛しています」と伝え、

それ以上に神がレーナを愛していること、レーナには神の特別な計画があって他人と違う形に造られたということを、折に触れては話して聞かせた。

このような両親の深い愛情を受け、レーナは前向きな明るい少女へと成長していくのである。


スウェーデンでは、聴覚や視覚障害を持つ子供は専門の学校に通うが、手足の機能障害者は普通の学校に通わせることになっている。

そのため国費によって介護アシスタントが付く制度があり、レーナも小学校1年生から7年間サポートを受けた。

しかし彼女は身の回りのことは、ほとんど自分でできたため、アシスタントは専ら事務の仕事を手伝うのみであったという。

また、いつも通っていた教会では熱心に聖歌隊員として活動し、そのほかバレーボール、料理、編み物、カメラ、運転など、幼い頃から何事にも楽しくチャレンジするレーナであった。

そんなレーナが特に小さい頃から興味を持ち、やがて人並み外れた頭角を現したのが、水泳と音楽である。

3歳の時に習い始めた水泳は、高校生の時にはハンディキャップ・スイミングの全国大会でスウェーデン新記録を出すまでの実力となっていた。

彼女は努力を続け、1986年の世界障害者選手権の代表選手に選ばれ、何とその大会でも50m背泳と自由形で金メダル、100m自由形では銅メダルと、複数の部門でメダルを獲得した。

続くヨーロッパの大会では4つの金メダルを独占するという快挙を成し遂げ、ついに、1988年ソウルパラリンピックの代表選手に選ばれたのである。


しかし、このような活躍の一方、過酷な練習とメダルへのプレッシャーのため、レーナの心はかつての強さを持てなくなっていた。

情緒も安定せず、出場の意欲はおろか水泳をやめることも真剣に考え、毎日泣いて過ごしていた。

ところが、ちょうどその時、沈んでいたレーナの元に不思議な電話が、かかってきたのである。

「お元気ですか?神様があなたに電話をするようにと示されたので、夜遅くて失礼かと思いつつも、お電話いたしました」。

電話の主は、レーナの教会の婦人からであった。

「つらいこともおありでしょう。けれども、神様はいつもあなたと一緒にいて下さいます。だから、水泳の練習がんばってね」…。

その電話は短いものであったが、レーナはこれを通して、はっと気づかされた。

自分のために祈ってくれていた人がいたということを。

孤独だと思っていたのに、孤独ではなかったということを。

そして、レーナは「メダル以上に、障害を持ちながらも喜んで生きる姿を人々に示したい」と彼女らしい原点に立ち戻ることができたのである。

この日を境に、レーナはかつての明るさを取り戻し、パラリンピックでも好成績を残すことができた。

レーナはその後水泳を引退。
のちに生涯の仕事として選んだのが、ゴスペルシンガーである。この選択には、彼女の篤い信仰も大きく影響している。

敬虔なクリスチャンでもあるレーナは、小さな頃から聖歌隊で歌い、歌を通じて信仰を伝えていきたいと以前から強く願っていた。

そんなレーナの積極的な生き方が反響を呼び、たちまち国内外のコンサートツアーが組まれるようになった。

また、1995年にはお互いを理解し会える最良の伴侶、ビョーン・クリングヴァルと結婚し、幸せな家庭生活を送ることとなった。


ある記者が彼女に尋ねた。「あなたは自分の体の障害を悲しいと思ったことはありませんか?」

レーナは答えた。

「少し不便だと思ったことはあります。でも悲しんだり落ち込んだりしたことは一度もありません。

神様は何か目的があって私をこのように造られたのだと思います。ですから、その目的が何であったのか、これからが楽しみです」と…。



私たちは、自分の人生に対する神の願いと計画を信じ、明るく前向きに生きるレーナの姿に、同じ一人の人間として学べることがあるのではないでしょうか…。