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ある広告看板業の男性の方の記事です。


私が小学校三年生の時のことである。

夕暮れになると私は街なかの駅に歩いていった。

今日で四日目、列車が到着しても母の姿はいつも見えなかった。

母が帰るとすれば、その列車だと信じていたが、次の列車もその次の列車も長いこと待ち、

ついに帰らないと分かると、落ち込むような沈んだ気持ちになって私は肩をすぼめ、我が家へ帰って行った。

母はどうして急にいなくなったのだろう。小学校三年生の私にとって、父と母の事情はよく分からないが、ある日母は、

「お母さんが居らんでも、毎日きちんと学校へ行くんだよ」

と言った。そうして三日たって母は一年生の妹を連れて出ていった。

漠然とだが多少わかることは、最近父が理容店を持ちこたえられなくなって人に譲り、家族は裏長屋の小さなひと間の家に移った。

父は仕事もろくにせず、借金がかさんでいた。父は何か賭け事に凝っていた様子だった。

そして父は一度だけでなく、過去にも二軒、店をつぶしていた。理容店の仕事は母も長い年月をかけ、技術を習得して父を助けていた。

しかし父は店も母に任せきり、母のお客の方がずっと多いぐらいだった。

母はなかなか涙を見せない人だった。私も母が涙を流した姿をあまり見たことはなかった。

気丈な性格というより、父がひ弱な性格のために自分がしっかりせねばならなかったからだろう。しかし、今度は母が思いきって私を置いて出ていった。

どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったのかと母を少し怨んだ。父の甲斐性も生活力もないことも怨んだ。

ふと、私は母は実家に帰っているのではないかと思い、うちから十里ほど離れた山奥の村である母の郷里に手紙を出した。

しかし、待てど暮らせど、母からの返事は来なかった。
いよいよ私は落胆した。それ以上に冷たいばかりの寂しさが毎日私を取り囲んでいった。

「お父さんがね、あんまりお母さんをあてにしたのがいけなかった。これからは真面目にしっかり働くぞ。お前もな、安心して勉強せえよなあ」

父はそう言い、事実理髪道具を持って毎日出ていき、夕暮れに戻ってきた。
私が駅に行っているのを知り、こう言った。

「お母さんが居らん間に、お金をたくさん貯めるぞ。お母さんが戻ってきたらびっくりするぐらいにな」。

夕方、粗末な菜っ葉煮や削り節で飯を食べ、昼は大福餅を買って置いといてくれる父。

父は1日も休まず、本当に見違えるように働き出した。今までの父が嘘のようだった。

父が真面目に働き出したことも手紙で知らせたが、母は相変わらず消えたように、なかなか戻ってこなかった。

もしかして、私は実は母の本当の子供ではなかったのではないか?などといった思いまで募った。

私は淋しさを紛らすために今まで以上に勉強に打ち込んだ。
知らぬ間に成績があがっていた。

先生にほめてもらったが、心から喜べなかった。何だか母なし子みたいで情けなかった。

二十日ほどが過ぎた。私には三ヶ月も四ヶ月も経った気がしていた。

半分あきらめもあり、母などもう戻って来んでもよいなどと、捨て鉢な気も起こっていた。

それでも夕方になると、1日も休まず駅に通った。
汽笛の音が毎日もの悲しく私の胸に痛いぐらい響いた。

乗り降りする人々や子供たちの笑い、さざめく高い話し声など聞くと、よけいにつらかった。

改札口でぼんやり立って列車の到着を気長く待った。
今度は、今度はという期待で胸を弾ませるが、どの列車も母を運んでは来なかった。

ああ、母は本当に自分など他人みたいに思っているのかも知れないと思うのだった。

初夏で気候のよい時節だったので、駅の向こうの森かげにようやく明るさを増した陽光が、夕方には一段と輝くばかりになった。

雨の日はぼろ傘で半分濡れながら通った。濡れるとまだ芯まで寒くなった。

二十日が過ぎてまだ、相変わらず私はあてに出来ない列車を待っていた。

奥の村から帰ってきた列車から人々がはみ出て、ホームを群がって歩くのをぼんやり眺めながら、涙がにじみ出た。

その時、人影がようやくまばらになった後ろの方から、大きくふくらんだ荷物を提げた見覚えのある姿を見つけた。

そこには母と、少し後ろを歩く母の姉の姿があった。

私は駅員が大声で制止するのも気にせず、改札口を飛び越えて、母に向かって走っていった。

「お母さん、戻ったんかあ!」
喉が詰まった。

「おお、まあちゃん!一人で辛かったろな!」

母は小さな私を胸の中に抱きこんだ。
私は久方ぶりに母の肌の白さと、暖かみを感じて、今までの辛い、悲しい思いも消えた。

ふと、額のあたりにまた、違った暖かいものが流れた。


顔をあげると、母の両目に大粒の涙が光っていた…。