エンジェルホール その4

 早いものであれから1年が過ぎた。去年の今頃は入院生活を余儀なくされていた。宣告をされてから入院するまでの検査、検査の日々と、それに続く入院までのホルモン療法の日々の方が入院生活よりもずっと苦しかったと思う。男性ホルモンを抑えるホルモン療法は、わが体を見る見るうちに風船のように膨らませ見た目は貫録がついたかに思われるが、反面、体力は3割がた落ちるという副作用をともなっていた。体力が落ちると云うことは、前向きな意欲をも失くすという精神的なダメージがあり、物事に対する無気力感にかなり苦しんだものである。もう仕事を止めようかと真剣に思ってみたものである。「人生の潮時かな」なんて、センチになっていたのです。

「 二つ良いことさて無いものよ 月が漏るなら雨が漏る 」都都逸

 この無気力感を無くすために何か一つに意識を向けて、ただそれだけに意識を集中させるべき目標として「エンジェルホール」を選んだのである。そのために今年初めから腹筋運動を開始し4月からは1時間の早朝散歩を実行した結果が、体重は5㎏落ちズボンのウエストは96㎝から88㎝でも緩くなりほど細くなった体形に相成ったわけである。

 

「 わずかなことがわれわれを慰めるのは

              わずかなことがわれわれを悩ますからである。」 パスカル

 

 日本の旅行に関するガイドブックと外国のガイドブックの大きな違いは、なんだか知っているだろうか。日本のものは、親切丁寧に沢山のイラストや写真が載せてあるが外国のもの(本)には写真などはほとんどなく文字のみの説明だけのものが多いのである。一見親切な日本のものは、行く前から現地の景色や風景が視覚的に認識できる利点はあるが、反面、想像力を刺激させる効果を少なくしてしまっているのではないだろうか。旅先で日本人が必ず口にする言葉には、「まぁ、きれい。絵葉書みたい!」「なぁ~だ、写真ほどじゃないわ」現地に行く前に現地の風景を脳にインプットしてしまっていては、現地に行ってからの興味が半減してしまうことになる。だから、現地に行ってその写真と違う場合は不満を感じてしまうのも日本人の特徴のようである。

 

 外国のものは文字のみの表現であるから、視覚的なものより旅行者の想像力をより膨らませることが出来る分だけ、旅そのものに期待感が高まるようである。もし自分の想像していたものと違っていたとしても、元を知らないのだからあまりガッカリしないで済むようである。日本人のように写真(絵葉書)の風景を確かめる旅ではないような気がします。視覚に訴えることは大切なことであるはが、そればかりでは肝心の「知らない世界に惹かれる」と云う旅の醍醐味である「あんなとこ(処)かな?こんなとこ(処)かな?」の期待感が削がれてしまうのではないだろうか。何でも事前に分かることは素晴らしいことではあるが、知りすぎた知識のインプットが旅を味気ないものにしているようである。旅先で、これでもかとインターネットやガイドブックから集めた資料を持って、博識を披露されている方をお見受けすると私のような無精者には、よくぞそれだけ集めたと感心させられぱなっしであります。だから、私は旅行に行く前はガイドブックをあまり読まないようにしております。「まぁ、行きゃわかるさ」と無精を決め込んでおります。無垢な気持ちで初物に接したいただそれだけです。

 てさて、話を本題に戻しまして…

 

 エンジェルホールを滝壺からの眺める陸路のコースを何とか無事に終えて、帰りのカヌーボートに乗り込み10分位経った頃だろうか、何気に足を組み替えたとたんに私の右足に激痛が走り、こむら返りのように筋肉が硬直して痙攣し出したのである。思わず「船を止めてくれ!!」と叫び出したくなる気持ちを必死に抑えていると、額に脂汗が滲んできた。足を動かしようにも突っ張ったままの右足は極度の緊張に震えるばかりであり、また無理な体勢のためか今度は腰の付け根の外側まで痺れてきたのである。幅の狭いカヌーボートの中では、如何せん体を横に寝かすこともできない。

 

 エンジェルホールを真下から見上げたい一心で筋肉の疲労感も意識できないくらい無我夢中で、悪路を歩き急勾配を登り降りしていた私の足は、極度の緊張と疲労の蓄積が限界に達していたのかもしれない。このため、過冷却状にあるビンの中の水に何らかの刺激(振動)を与えると、その水が見る見るうちに結晶化する(接種凍結)ように、帰りのカヌーボートに乗ったことによって、目的を遂げた「ちょっとした安堵感」の刺激によって精神的な緊張感が一瞬にして崩れ、足の筋肉が急速に暴れだしたようであった。20分ほど右足の痙攣に悪戦苦闘してやれやれやっと治まったかと思って、足を組み替えた途端、今度は左足に激痛が走った。カヌーボートの中での新たな苦悶の始まりであった。

  

 エンジェルホールの滝壺に向かうウカイマの湿度93%の熱帯雨林のジャングルの中では、大地は堅い岩盤のため樹木の根は地中に潜ることが出来ず地上を根が複雑に交差しながら這っている。このために一見平坦なように見える道(はたして道と云えるかどうか)でも足元が非常に悪いため、前方ばかり見ていると足が木の根に躓いてすぐ転んでしまうため危険極まりない。私たちのツアーの参加者も数人が黄色い声を上げてあちこちで転んでおりました。今朝方まで降り続いていた雨の為に地面は水たまりやぐちゃぐちゃの泥地が多く、加えて木の根は濡れているので滑りやすくはなはだ難渋の連続でありました。

 

 湿度93%のサウナ風呂のような湿気に半袖シャツになりたいのはやまやまであるが、ここには「プリプリ」と云う名前だけは可愛いほんとに小さい虫がおりまして、こいつに刺されるとあまりの小ささにその時は気づかないが、暫らくすると刺された顔や腕が真っ赤に腫れて物凄く痛痒いので大変な目に合うから要注意と云われていたので、長袖を着なければならないのです。(中には、養蜂の蜂除けネット帽をすっぽりかぶっている用意周到な親父さんもおりました。)顔を刺された奥様は、鏡を持っていなかったことが幸せだと思わせるほど目の周りが腫れ上がり、プリプリに刺されてプリプリと怒り心頭に達しておりました。こう云ってはなんですが、本当に他人の奥さんで良かったと思っております。ちなみに私もこのプリプリにいつの間にか刺されておりまして、その時は何にも痒くなかったのですが、4日目位から痒くなり、3か月経った今でも刺された箇所は赤くなって残っております。このプリプリって奴は実にしつこい執念深い奴なのであります。人間、その時は大したことはなくても後々まで尾を引くことってあるんじゃないかなぁ…。身に覚えはありませんかご同輩のみなさん。変な蟲と云うけど執念深いのだけには気を付けましょう。ほんとに怖いよ。

 

 

 

 早朝からジャングルを歩きまわった後の長袖(トレーナー)は、かいた汗と湿気でずっしりと重い。シャツを洗濯して干すわけであるが、湿度93%の環境下では、室内に干した洗濯物が一日置いても乾かないのである。おまけに洗濯すると云っても蛇口から出てくる水はタンニンをたっぷり含んだコーラ色のため、白いものはすぐに赤茶色に染まってしまう。日本なら伊香保温泉などの鉄分を含んだ赤茶色の温泉水と思えば間違いがない。だから、ロッジでは白いタオルやシャツは洗えないのである。このため、持ち込んだ衣類をとっ替えひっ替えして着るのだがそれも底を突き、仕方がないから紺や赤などの色の付いているシャツやトレーナーを使い廻わすしかないのである。この長袖のトレーナーが自分の汗でびしょ濡れになり肌に纏わりついて気持ちが悪いったらないのである。おまけに自分の汗の臭いにこれまた辟易となり、さすがに山を下りた時には休憩所のゴミ置き場に安置してきました。(トレーラーに何の罪はありません。あるとすればここの湿気でしょうか?私の加齢臭でしょうか?)

 ツアーガイドのアントニオが何時も身につけている真っ白いシャツを見て、私たちの間では密かに囁かれていたことがあります。

 

 ある奥様曰く「あのシャツは何であんなに真っ白なんだろうか?不思議よね!」

キャリアウーマンのオネーチャン曰く「きっと、ミネラルウォーターで洗濯してんじゃないの」

そんな会話が飛び交うほど、アントニオはアイロンの効いた純白のシャツを着ていたのである。誰かアントニオに訊いてみればいいのだが、何を思ったか誰も訊かないのであった。これも不思議なことである。

 

 

 ジャングルに生えている木々は、根が地中深く張れないせいか木の幹はあまり太くはなくスリムだが、見上げるように背の高いのが特徴でした。いわゆる、幹の太い大木と云われる木はないのである。見上げると背の高い木々の枝が空を遮り、うっそうと暗いためガイドがいなければたちまち方向音痴に陥り道に迷ってしまうこと請け合いであります。そんな悪路をものとせず、常にトップを取っていた東京で会社を経営している旦那の奥さんは、エアロビクスとスポーツジムで日ごろ鍛えた体力をいかんなく発揮しておりました。こんな女に負けてなるかと気持ちだけは焦るのですが、悲しいかな体が付いていきませんでした。総じて今回のツアーは、奥様の方が元気、ゲンキ、げんきでした。環境に順応する能力は男の比ではありません。『弱き者、汝の名は 亭主なり』でありました。

 

このジャングルの中に、一際色鮮やかな口紅を思わせるその名も「ジャングルのキス」と呼ばれる唇の形をした赤い花が印象的でした。思えば、「キスをしたのはいつのことだったろうか」といらぬ妄想に襲われてしまいました。この花はコーヒーの仲間とのことで、そう云えば『夜明けのコーヒー』飲んだのは誰とだっけとまたまた妄想の翼が広がってしまいました。

 

 

カヌーボートは、その名の示すようにカヌーのように幅が狭く細長いために、舳先はかなりの鋭角に作られているから、走り出すと先端から左右に大きな水飛沫が立ち上がるのである。スピードが増せば増すほど飛沫は高くなり乗っている私たちに降りかかってくる。その水飛沫がボートの底に溜まるため後ろの船頭がこの水を一生懸命に桶で汲み出すのだが片道2時間の船中では如何せん何とも捗らないのである。結果、足元は常に水浸しとなり折角濡らさぬように防水用ビニール袋に入れて船床に置いた荷物は、その甲斐も無く無残にも水濡れ状態になってしまったのである。世の中には、如何に用意周到に準備しても、自分の思っていた以上の最悪な状態に陥ることってあるもんですね。私の足は硬直して激痛が走り、そのうえ船底に溜まった川の水にトレッキングシューズはずぶ濡れ、幌のないカヌーボートは風をまともに受けるため体はだんだん冷えてくるし、「早く、ロッジに着いてくれ!早く帰りてぇーε」と呪文のごとくひとり唱え続けておりました。

こんな経験は、ガイドブックには書いてありません。自分の体で体験するしかありません。エンジェルホールは、もう一度チャレンジしろ、そのために体を鍛えろ、怠惰な生活にカツを入れろと言っているようでありました。

 

「釣れないときは 魚が考える時間を与えてくれた と思えばいい」 アーネスト・ヘミングウェイ

2014/11/8